はじめに

喧嘩騒動の舞台私の職場は長崎市南部の深堀町(ふかほりまち)にあります。ある時,地元の人から「深堀には有名な討ち入りの話があって,それにかかわった武士の慰霊祭が毎年ある」ということを聞きました。その後,深堀の郷土史をはじめいくつかの文献を調べてみました。すると,この事件は赤穂浪士討ち入りの発端となった松の廊下事件が起こる一年前の出来事で,当時国内ではたいへん有名になったということを知りました。

鎖国時代の長崎は,わが国最大の海外貿易の窓口として有名でした。幕府は長崎を直轄地(天領)とすることによって,海外貿易でもたらされる富や文化を管理していました。その頃の深堀は政治的には佐賀藩に属しており,長崎港内外の海上警備の一翼を担っていました。調べていくうちに,この事件はそれほど単純なものではないことが分かってきました。貿易都市長崎の極めて特異な成り立ちと,過酷な警備を担っていた佐賀深堀藩(当時は長崎警備を佐賀と福岡が一年交替で行っていた)の事情が浮かび上がってきたのです。

長崎喧嘩騒動が起こった背景には「長崎町人と深堀武士」という対峙がもともと底辺にあった,ということを強調しておきたいと思います。事件は1700年(元禄13)12月に起こりました。深堀の武士たちが長崎の筆頭町年寄である高木彦右衛門の屋敷に討ち入り,彦右衛門とその家来たちを殺害したのです。長崎喧嘩騒動は長崎喧嘩もしくは深堀騒動とも表記されますが,「深堀騒動」は長崎側からみた表現として使われているようです。いずれも本事件を指しています。

長崎喧嘩騒動の中心人物

(深堀側)
・ 深堀三右衛門 70歳 討ち入り後に高木邸内で切腹。
・ 志波原武右衛門 60歳 三右衛門の甥で,討ち入り後に大橋の上で切腹。
・ 深堀嘉右衛門 17歳 三右衛門の息子で討ち入りに参加。幕命にて切腹。

(高木側)
・ 高木彦右衛門 身分は町人であるが長崎の筆頭町年寄。代々町年寄をつとめたことで有名。
・ 高木彦八郎 彦右衛門の一人息子。
・ 惣内(そうない) 高木家の使用人で,三右衛門らの直接の喧嘩相手。

事件のあらまし

大音寺坂
現在の大音寺坂は石段になっている

12月19日の昼,深堀領主鍋島官左衛門茂久の家臣である深堀三右衛門と志波原武右衛門は所用があって深堀から長崎へ来ていた。道は雪解けで足場が悪く,高齢の三右衛門は杖をついていた。二人が本博多町(現在の万才町)の大音寺坂を通りかかったとき,向こうから町年寄である高木彦右衛門の使用人らがやってきた。ところがすれ違いの際に三右衛門の杖が泥を跳ね上げ,惣内という人物にかかってしまった。三右衛門らは不手際を侘びたものの,惣内らは承服しなかったので口論になってしまった。その場は近所の者が仲裁に入り双方とも一旦は引き下がった。しかし,夕方になって高木家の使用人10名あまりが長崎市五島町の深堀屋敷に押しかけ,三右衛門と武右衛門に暴行を加えたのち大小の刀を奪い去っていった。

高木屋敷跡
浜町アーケードの高木屋敷跡付近

五島町屋敷からの知らせを受けた深堀では,三右衛門の息子嘉右衛門をはじめ10名が長崎に向かった。そして翌日未明,三右衛門・武右衛門らと合流して浜町にある高木屋敷に討ち入った。その後,深堀から9名が加わり,高木彦右衛門および惣内,さらに剣客を含む家来の合計9名を殺害した。彦右衛門の息子彦八郎は討ち逃がしてしまったが,本望を遂げた三右衛門は高木邸内で切腹。深堀勢は五島町屋敷へ引きあげることにしたが,その途中で武右衛門は浜町の大橋(現在の「くろがね橋」中央橋となり)の上で切腹した。

くろがね橋
志波原武右衛門が切腹した「くろがね橋」

佐賀本藩の長崎聞番(ききばん:本藩との連絡役)である伊香賀利右衛門は,ただちに長崎奉行に事件の報告をおこなった。その日のうちに五島町深堀屋敷へ奉行所から検使がやってきた。伊香賀利右衛門と家老の田代喜左衛門は検使にそなえて用意していた口上書(討ち入りに至った理由)を提出した。差出人名は最初に討ち入った10名であったが,奉行所は討ち入り場所周辺の聞き取りをもとに,参加者の数はそれより多いのではないかと見積もった。(高木屋敷周辺には深堀から駆けつけた武士たちが相当な数になっていたという)そこで,深堀側は後続として加わった9名を追加した。佐賀藩からも早々に長崎奉行所へ使者を送り,また深堀屋敷警固のための侍や足軽など数十名を派遣した。

長崎奉行は本件を幕府(当時は将軍徳川綱吉,側近には柳沢吉保など,後の赤穂浪士事件でも知られる顔ぶれ)に届け判断を仰ぐことにした。そして事件発生から三か月後,長崎奉行は次のように裁断を下した。(長崎奉行所の記録が現存)

1) 深堀三右衛門,志波原武右衛門らとともに最初に討ち入った深堀武士10名は死罪切腹。
2) 討ち入り後半に高木邸に到着した深堀武士9名は五島列島各地に遠島。
3) 高木彦右衛門の息子である彦八郎は家財屋敷没収,長崎五里四方追放,江戸・京・大坂の居住禁止。
4) 五島町深堀屋敷へ押し入った高木家の使用人8名は死罪斬首。

深堀領主の鍋島官左衛門茂久は,事件当時佐賀藩勤番で居合わせなかったのでお構いなしとされた。しかし,佐賀藩は自主的に官左衛門の長崎警備役をはずし五島町屋敷を召し上げた。ただこれは公儀に遠慮した表向きのものであったらしく,佐賀深堀藩の長崎警備役は依然として極めて重要な位置づけにあった。ところで,本事件に対する幕府や長崎奉行の反応は深堀側に好意的であったという。佐賀藩は,武士の精神的規範を強く重んずる風潮があることで広く世間に知られていた。

裁断が下ったのちの様子

(深堀側)
元禄14年3月,五島町深堀屋敷にて奉行所からの立ち会いのもと10名の切腹が行われた。最年少で17才の深堀嘉右衛門の遺書が現存しており,辞世の句とともに母と姉への心遣いがつづられている。

立ちかへり草のかげなる露の身の
きえし此の身をあわれとも見よ

五島列島各地に遠島になっていた9名は,9年後に将軍綱吉の死去で赦免になり深堀へもどることになった。ところが五島大和守の温情で7名は遠島の地で妻帯し,なかには子をもうけた者もいた。罪人の身で家族を持ったことを表沙汰にもできず,結果的にはここでも新たに家族の別離という悲劇を生んでしまった。島に残された妻子たちのその後については記録がないが,子は士分に取り立てられたと伝えられている。

(高木側)
息子の彦八郎は,のちに大村において生涯を終えたと伝えられている。


菩提寺 深堀武家屋敷 深堀陣屋跡
深堀武士21名の墓碑が建つ菩提寺 深堀武家屋敷跡 深堀陣屋跡を漁港から望む

お礼

当初は深堀(鍋島家)家臣の志波原武右衛門(故人ですので慣例に従い敬称を略しております)の姓の表記を「柴原」としておりました。一部の文献には「柴原」が使用されていますがこれは誤りで,正しくは「志波原」で菩提寺の墓碑もそうなっております。志波原武右衛門のご子孫でいらっしゃる東京在住の志波原様より,ご丁寧なメールを頂きました。ありがとうございました。

参考文献


深堀と承久の乱について

承久の乱 承久三年(1221年)
源頼朝が亡くなったあと鎌倉幕府の体制は不安定になりました。それを機会に後鳥羽上皇は兵を集めて幕府を滅ぼそうとしました。頼朝の妻でその後は尼となった北条政子は,東国(関東)の武士たちを集めてこれを阻止しました。鎌倉幕府は封建制度といって「御恩と奉公」の関係で将軍と家来の武士たちはつながっていました。将軍は武士に対するほうびとして土地の支配権を与えるかわりに,武士たちは将軍のために戦ったり経済活動を負担したりしました。承久の乱では東国の武士(将軍と御恩と奉公の関係で結ばれている武士で「御家人」という)たちが,御恩として西日本各地の土地の支配権を受け取りました。

長崎市深堀町は承久の乱と深い関係があります。承久の乱で幕府軍として功績があったことで,上総国(現在の千葉県)の御家人である深堀能仲(ふかほりよしなか)が,建長七年(1255)に将軍からほうびとしてもらったのがこの地でした。それまでは,このあたりは肥前国戸八浦(戸町浦ともいわれる)と呼ばれていました。戸八浦は現在の深堀町・香焼・戸町を含む長崎半島の大部分でした。じつは能仲は戸八浦の前にも別の土地をもらっていたのですが,いずれも気に入らなかったらしく最終的に満足したのがここだったそうです。深堀能仲の出身である深堀氏は,上総国を治めていた有力な武士の中の一族でした。


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