長崎と中国との接触は慶長五年(1600)に始まりましたが、寛永十年(1633)徳川家光は、第一回の鎖国令
を出し、寛永十二年には中国貿易船も入港は長崎だけに限られました。元禄二年(1689)唐人屋敷が造ら
れ、それまで長崎市内に散宿していた中国人は現在の館内町の一区域に集まって住むことになります。中
国人が長崎へ来て唐人屋敷に移り住むまでの約八十年、この間、中国人が市中の町家に雑居することを
「町宿(マチヤド)」と申しました。長崎市民と最も親密な交歓があった時代であります。この町宿での生活の
中で、長崎人は、はじめて彼らのご馳走、中国料理というものにお目にかかったわけで、それが今日の「長
崎卓子料理」のはじまりとなりました。

  「卓」はテーブル。従時は卓にテーブル掛けを垂れた。これが「袱」。現在では「袱」を使用しない。中国で
「八遷卓(バツエンチョ)」又「卓子(チヨツウ)」あるいは単に「卓子(チヨ)」という。広東や東京(トンキン)の中国
人の話を長崎風に「しっぽく」と訛ったのだといわれ、字義的には、料理の席の形式と考えられる。最近、「長
崎卓子料理」とわかり易く呼ばれるようになった。長崎では、朱塗りの円いテーブルを「しっぽく」と呼ぶことが
あり日本のある土地、従時の台湾などでも「しっぽく」の食事といえば、「気軽る」に「おもやい」料理で食事し
よう、という意味がある。おこりはやはり長崎であります。

  「卓子料理」は文字通り、一つの卓を囲む食事で、会席膳のように格式張ったところがありません。一つの
器に盛ってある料理をお客様は自分の小皿に「直き箸(自分の箸)」でとって食べる。いわゆる「おもやい」の
雰囲気でたいへんうちとけた楽しさがあります。封建の昔でも、天領の長崎では身分上下のへだたりなく武
家町人も同席で、この「卓子」を囲みました。日本の他の土地に、「卓子料理」が発達しなかったのは、この
ような歴史的風土が無かったからでありましょう。

  「長崎卓子料理」の特徴として、先ずはじめに「お鰭(おひれ)」という吸物が出ます。これが出ると、主人役
がお客様に「おひれをどうぞ」と挨拶を致します。それがすんでそこで始めて宴がはじまるのです。主人の招
待の挨拶、ご答辞、その他もすべて「おひれ」のあと、このへんが普通と違うところです。お客様には最初、
卓の上にお一人様に取り皿二枚、箸、トンスイ(陶器のサジ)が配られています。二枚の小皿で始めから終わ
りまで全部の料理を食べわけるならわしですが、こだわることはありません。
  「おひれ」というのは、お客様一人に魚一匹を使いました、という熱烈歓迎の気持ちがこめられています。


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