長崎検番です「よろしくお願い申し上げます」

長崎民謡 「浜節」



部屋の中で芸子衆が待っていますよ

 今日の長崎市の起源は、元亀2年(1571)にポルトガルの要請によって海外貿易の門戸として開港したことに
由来します。以来、鎖国政策のもとでも長崎は唯一の貿易港として開かれてきました。こうした長崎市の歴史が
もっているエキゾチシスムは、今も町の至るところにみられ、大きな観光資源ともなっています。
 さて、JR長崎駅前から、かなり時代物と思わしき市電に乗って「思案橋」まで行き、「思案橋通り」を奥に歩い
て行くと、かっての日本三大遊郭の一つとして知られた丸山遊郭のあった丸山町・寄合町に出ます。ここに  
長崎検番の建物があります。かって、丸山遊郭の妓楼であった「松月楼」の建物を譲り受けたというだけあっ
て、その旧さには圧倒されてしまうほどであります。しかし、今日の長崎花街にはもはやかってのような賑わい
はなく、丸山町・寄合町の界隈にも当時の情緒はみられません。わずかに、かっての名妓楼として有名な「引田
屋」の建物が名所として残されているのみです。それでも、長崎検番には17名の芸子が所属し、今なお花街の
伝統を守っています。
★芸妓の出現は天明元年頃★
  丸山遊郭の誕生は寛永16年(1639)頃と言われており、それまで市内に存在していた遊女屋を丸山町・寄合
町に集め、ここに一大遊郭地としたことに由来します。最盛期には143名もの遊女がおり、井原西鶴が『日本
永代蔵』に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時
を知らぬ恋風恐ろし」と書いているように、その華美な賑わいは有名でありました。
  こうした遊郭の発展のなかから芸妓も生まれてきました。長崎では芸妓のことを「芸子衆(げいこし)」と呼ん
でいますが、その芸子衆が市中に現れたのは天明元年(1781)頃で、大阪から3名の芸子が下ってきたのが始
まりと言われています。浪速下りの遊芸子は芸達者で、座敷廻しも場馴れしていたため、大いに人気を博した
のですが、当時の者の滞在期間は100日限りとなっていたため、下って来ては引き上げ、引き上げては下って
くるということを繰り返していたようです。そのうち、丸山遊女の反発を受け、文化14年に入国が禁止されてし
まいました。しかし、この頃にはすでに地元の芸子衆が発達しており、市内各所に存在するとともに、丸山の廊
内にも住んでいたとのことです。それが、後年「山芸子」と「町芸子」と言われる芸子衆の気風の違いとなってい
ったと言われてします。
★昭和初期には丸山に東検番、めがね橋上流に町検番が★
 こうして発生した芸子衆が検番組織を確立するようになったのは明治に入ってからのことになります・
 昭和4年に発行された『全国花街めぐり』によれば、昭和初期には長崎市内に5つの花街に7つの検番があっ
たということです。すなわち、丸山東検番(芸子約170名)、丸山南検番(芸子約70名)、丸山南廊検番(芸子
約30〜40名)の丸山花街の3検番の他に、稲佐遊郭の検番、出雲町遊郭の検番、戸町遊郭の検番があり、
さらに市街の本紙屋町を中心に古町、麹屋町、新橋町にわたって存在した「町芸子」の長崎町検番(芸子約70
名)がありました。
  このなかでは、何といっても「山芸子」の丸山東検番と「町芸子」の長崎町検番が歴史においても、また芸に
おいても長崎市を代表する検番でありました。長崎町検番は明治40年4月、丸山東検番は明治42年8月に創
立されています。丸山東検番の芸子も、廊内の料理店だけでなく、市街の料亭・料理屋を出先としていました
が、もっぱら市中の料亭・料理屋を出先としていたのは町検番の芸子でした。もともと、長崎町検番は、当時の
代表的料亭である迎陽亭・富貴楼・一力等の旦那衆が幹部になって組織されていましたので、料亭・料理屋に
馴染みの芸子はこちらでありました。
★戦後は合併して長崎検番へ★
 戦後まで検番が存在したのも、丸山東検番と長崎町検番だけで、この両検番は昭和24年に合併して長崎芸能会という組織を発足させます。そして、昭和47年には、樺キ崎芸能会と、株式会社組織にしています。なお、長崎では戦後いわゆる「芸妓置屋制度」は廃止されており、この株式会社も在籍芸子のみが株式を所有できる制度となっています。また、検番という名称も使用しない方針をとっていたため、当初は長崎芸能会と名乗った訳ですが、これについては昭和52年に長崎検番と戻しています。
 こうして、戦後の長崎花街は一元化されて今日に至っているわけですが、もはや戦前のような賑わいは再現できませんでした。戦後の最盛期は昭和30年代で約100名芸子がおりました。昭和57年と平成7年の2回にわたって全国の芸妓の芸能公演である紅緑会にも出演するなど、その芸達者ぶりは広く知られているところですが、平成6年には芸子の数も22名になってしまい、その後も出演はありません。
 現在はさらに17名にまで減少し、非常に厳しい状況になっていますが、長崎市の代表的なお祭りである「おくんち」の奉納踊りの起こりは丸山の遊女であり、その後も「おくんち」の三味線を弾いての町回りを芸子衆が行ってきたという伝統を思い起こせば、長崎花街−芸子の灯を何としてでも守っていってほしいと思われます。

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