創業 明暦元年(1655)頃 
  大正十五年二月十三日の大阪朝日新聞に「富貴樓は長崎における料理屋の草別として三百年の歴史
を誇った千秋亭の後身で、明治二十年内田氏の経営に移るとともに現在の屋號に改められた、同樓で
は有栖川宮、伏見宮、閑院宮、久邇若宮各殿下を始め奉り、獨ハンヂン親王、露太公その他伊藤博文
公など明治の元勲、現在の各大官等に長崎式曾席を味はってもらったことを誇りとしている。」とある。
 前身は千秋亭、代々吉田屋を名乗り、明暦(1655)の頃には長崎松の森に料亭吉田屋を営む。寛文五
年(1665)吉田屋嘉一生まれる。延宝八年(1680)嘉一は吉田屋を拡充し「千秋亭」を興し自ら初代を名乗り
道甫と号していた。寛保元年(1741)嘉一没行年七十七才。寛政(1799〜1801)には「崎陽松の森千秋亭」
で有名。大田南畝(蜀山人)は自署「瓊浦雑綴」に、当亭の料理献立を記載している。又、俳人紫暁の日
記に「千秋亭に到り終日和漢の珍味に飽り」「四方眺め比類なし」とある。以後千秋亭と吉田屋は屋号を
併称して営業する。幕末には岩崎弥太郎や才谷梅太郎ら多くの幕末の志士達も来亭したと云われてい
る。
 富貴楼の大通り(下西山通り)側の石垣は元禄(1688)初期のものと云われ、造りは「はね出し」又「武者
返し」(別名「忍者返し」)と云われ築城などに用いられていた。上部を天端(てんぱ)と云う。

江戸時代 料亭「千秋亭」又は「吉田屋」と屋号を併称して営業。

慶応二年八月十一日(1866)  後藤象二郎(土佐藩)が異人(グラバー)を千秋亭吉田屋で接待する。
(この宴会の総額は現在の金額で80〜100万円位) 後藤象二郎が如何に太っ腹か、後を任された岩崎
弥太郎は大変だっただろう。

       大田南畝(蜀山人)が「彦山の端より出ずる月はよか、こんげん月はえっとなかばい」と
うたい「崎陽松の森千秋亭」として有名となる。

明治二十年二月二十日(1887)   吉田重吉は姪に当たる内田トミに経営を託し、屋号を「富士亭」と改
め継承る。内田榮四郎はトミが千秋亭を継承と同時に家名を相続する。

明治二十二年二月(1889)  ときの内閣総理大臣伊藤博文公来亭の折、「何かよい名前を付けて下さ
い」とトミが頼むと、「女将の名前は何という、ああ、トミか、それではこれがよかろう」と示されたのが「富
貴樓」。当時、富士亭では牡丹花を栽培していて、長崎の名物になっていた。その高貴な姿と女将の名前
を結びつけたものであろう。

明治四十年十一月(1907)  閑院の宮妃知恵子親王殿下、当亭へお成り遊ばされた折、新築した仮室
の材料を以て、記念して広間を造る。当亭の広間の床柱は山南天と言い伝えられて、豊後蘇母山より出
たるものとの事。

明治四十二年九月(1909)  初代 内田トミ死去。

明治末頃  榮四郎の三男耀一郎 上海六三亭(白石家)の婿養子となる。その関係で中国の「呉昌碩」
「王一亭」らと交友を深める。

大正六年(1917)頃  芸子「愛八」新二階の部屋にて土俵入りを披露(海軍中将鈴木貫太郎閣下の
歓迎会の宴席にて)

大正十年(1921)  久留米にて陸軍大演習が大正天皇ご観覧のもと行われし折、榮四郎・洪冶が久留
米迄出向き大正天皇のご食事の調理を仰せつかり長崎料理を献上する。それを機会に宮内省とのご縁
が出来る。当時、榮四郎は屋号にちなみ、牡丹花を盛んに栽培し、文人墨客がこの花園を観賞するのに
「牡丹会」という催しを開き、市民一般にも開放した時代があった。「牡丹会」は宮内省の高官の方から陛
下のお耳にも入り、天皇・皇后両陛下より牡丹の苗を頂戴致し、その他各宮家の皇族方から毎年苗を送
って頂くようになる。「牡丹会」は昭和十五年、人手も無くなり内田ナツ一人ではどうにも出来ず中止する。
戦後も何かとさしさわりあり牡丹花の栽培せず・・・・残念

大正十二年頃(1923)  松の木に雷が落下し燃えた折、広間の先とベランダを造ったとの事。

大正十四年(1925)  閑院宮載仁親王宿泊の折、二階を改造、ベランダより「長崎はたあげ」を見物さ
れる。

大正十五年一月(1926)  宮内省大膳職仕出の司厨大野小助氏が富貴樓を訪れ三ヶ月住み込み、榮
四郎からしっぽく料理の秘伝を受ける。富貴樓はそれを記念して、特別注文の有田焼のしっぽく料理器
一式を献上。卓子(テーブル)は輪島に注文して二年もかかった。長崎卓子料理を主とし、宮内省の御膳
部にもその料理法は用いられている。

昭和八年十月(1933)  三代目 内田洪冶死去。

昭和九年二月(1934)   当亭向側の(東方)川を隔てた片淵町の方で深夜火災が生じ、当亭風下に当
たり危険を感じられたので地上より約二十米は有ると思われる屋根の上に、当店板場始め急を聞き付け
た出入りの職人衆の応援に依りことなきを得る事が出来る。

昭和十一年八月(1936)  当店にご来店のお客様のお供の方が煙草の吸殻を投げ捨てたのが原因で
現在使用している玄関に火災が生じるも少しの損傷で消し止められた。その後火災に対処する為、当亭
専用の消火設備をし火災に備える事になる。

昭和十二年十二月(1937)  二代目 内田榮四郎死去。

昭和十五年十一月(1940)  長崎三菱造船所にて、当時世界最大最強と云われた戦艦武蔵の進水式
に当たり、伏見宮殿下が来崎し当亭にお立ち寄りになる。そのため馬町から当亭下迄の道路拡張工事
が行われた。

昭和十九年三月(1944)  昭和十六年頃より物資の配給制度始まる。企業整備に依り、料理屋一時営
業停止。それと共に三菱兵器製作所の女子挺身隊の寮となる。戦後寮閉鎖。

昭和二十年(1945)  米軍海兵隊(進駐軍)の命に依り、当亭米軍の将校倶楽部の指定を受け、当時海
兵隊司令官ビル大尉の管理下に入る。なお将校倶楽部として指定を受けると共に、当亭の原爆被害の
修復や米軍将校に提供する食料などの支給を受ける。

昭和二十二年(1947)  飲料店営業一斉休止(昭和二十四年四月末迄)

昭和二十四年(1949)  米軍海兵隊の撤退。その後米陸軍24連帯進駐将兵に約一年間使用。

昭和二十四年(1949)  天皇陛下御巡幸の折、長崎料理の豚の角煮を召し上がるとの事で、其の調理
を当亭に依頼有り、調理して宿泊所三菱占勝閣に献上する栄誉を賜わる。

昭和二十五年(1950)  警民協会(警察官上級職)研修所として、約三ヶ月使用される。

昭和三十年頃(1955)  戦後料亭が営業出来るようになり、小部屋がないので一番古い建物を壊し客
室を造る。名は奥座敷(部屋の名付け親は当時三菱重工総務部長藤野豊介様)

昭和三十八年頃(1963)  お客様便所・仲居部屋の場所を変えて、表座敷を造る。下西山側玄関も造
り替える。

昭和四十四年九月(1969)  長崎国体夏期大会にて皇太子ご夫婦(現天皇・皇后)に昼食を出前する。

昭和五十九年(1984)  四代目 内田恭助死去。

平成三年九月(1991)  台風17・19号にて建物一部破壊される。

平成四年(1992)  お客様トイレ改造工事。

平成六年二月(1994)  住居側石垣崩れる修復不可。

平成六年四月(1994)  五代目 内田 隆死去。

平成十二年一月(2000)  第11回 1999長崎市都市景観賞「歴史ある建物」部門受賞

平成十八年九月(2006)  台風13号にて客室(広間と新二階)が傾く被害を受けるが平成十九年二月に
外観を維持して被害修復工事を行う。

平成十九年六月(2007) 文化庁 国登録有形文化財に登録される。

平成二十年(2008) 長崎県 まちづくり景観資産に登録される。

 現在に至る。

昭和初期の長崎名物おかっつぁま(女将) 
富貴楼(内田ナツ) 菊本(杉本ワカ) 桃太郎(重富キミ) 松亭(松田チエ) 鹿島屋(安田エツ) 

 内田榮四郎の生立ち
佐賀の住職の長男として生まれたが、お寺を継承することが嫌いで自分の生きる道を大陸に求め、長崎
より上海に渡らんとせしも、長崎にて病になり吉田重吉に助けられ、後縁ありて内田トヨと結婚する。



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