長崎被災協の45年1951〜2001
     
 私たちが被爆して9年目の昭和29年3月1日、南太平洋でのアメリカの水爆実験の死の灰が操業中の日本の漁船第5福龍丸に降り注ぎ、乗組員の1人久保山愛吉さんは放射能障害で亡くなりました。
広島、長崎についで3度目の核兵器の被害に、日本中に怒りが渦巻き、原水爆反対の声が満ち溢れたのでした。
 こうしたなかで、昭和30年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、長崎の被爆者も参加、被爆の実相を語り、原水爆反対を訴えたのでした。
 第2回世界大会は長崎で開かれることとなり、その準備に取り組む中で被爆者の組織づくりがすすみ、初代会長は杉本亀吉さんが選ばれました。ついで8月9日の第2回世界大会の翌日、この長崎の地で、被爆者の全国組織日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が誕生しました。
 原水爆反対の声と全国各地に生まれる被爆者の会に圧倒された政府は、被爆者を放置できなくなり、昭和32年3月、ようやく「原爆医療法」が制定されて「原爆手帳(被爆者健康手帳)」の制度ができました。
 被爆から12年目のことでした。
 原爆医療法ができたので被爆者の会も解散したらいいじゃないかという考えを持たれた方もあったようだ−と小佐々八郎氏は述べています(『原爆被害の実相長崎レポート』1977)。
それでも会が残ったのは、原爆医療法に不備があったことと水爆という新たな兵器の出現を放置できなかったからと小佐々氏は言っています。
 事実、原爆医療法の改正と国家補償の被爆者援護法制定を求める運動は高まり、日本被団協はその年の11月に国会請願行動に取り組んだのでした。
その翌年(1958年)2月原爆投下時の米大統領トルーマンは、テレビで「原爆を投下したことに良心の呵責は感じない」と発言、日本被団協をはじめ抗議の声が相次ぎました。
そしてこの年の4月には、衆参両院で原水爆実験禁止を決議したのでした。
 長崎に原爆病院ができたのは、この年の5月。
翌59年から60年にかけて、日本中は「安保」に揺れました。その中で首相や防衛庁長官の口から「自衛の範囲なら核兵器の保有も違憲ではない」「防護用の核兵器は合憲」という言葉も飛び出しています。
 日本原水協の海外遊説団に被爆者代表として山口仙二氏が参加、渡欧したのは61年1月でした。
 長崎被災協は財団法人として認可されたのは、1963年5月のことでした。
 12月には、東京地裁が「原爆投下は国際法に違反する」との明確な判断を示す判決を下しています。
翌1964年の10月には中国が最初の核実験を行いました。これを口実にアメリカの「核の傘」が日本を覆い始めるのです。
 一方、国家補償の援護法を求める運動は一層大きくなりました。衆・参両院で「被爆者援護強化の決議」も採択されました。
翌1965年は被爆20周年−自転車振興会の補助を受け、旧被爆者会館ができたのは、この年の3月でした。
 原爆医療法制定から10年目の1967年、日本被団協は被爆者援護法制定をめざし積極的に行動しました。
 この年の3月14日から17日までの4日間には全国から延べ800名が東京に結集、数寄屋橋での座り込みや国会請願などが展開されました。この行動に、現会長葉山利行氏や現副会長谷口稜曄氏ら9名が参加しています。
 6月にも中央行動が行われ長崎から6名が参加しました。また10月には全国行脚も始まりました。
こうした動きに自民党も対応を迫られ、政調会に被爆者対策小委員会が設置されました。
 国家補償の被爆者援護法を!のうねりは、1968年に入ってさらに高まりました。1月、2月、3月と日本被団協は中央行動を配置、長崎からも代表団が上京しました。政府は3月、原爆特別措置法案を国会へ提出、5月には衆・参両院で可決成立し、手当の制度ができたのでした。
 しかし、この内容は私たちが求めていたものとは違っていました。
 たとえば、新設された健康管理手当にしても、きびしい所得制限・年齢制限の枠がはめられており、翌69年当時の長崎市での受給者はわずかに被爆者総数の5.1%(4175人)にすぎなかったのです。
特別措置法は、制定されるや否や改善要求にさらされることになり、「国家補償」への要求はいっそう大きくなったのでした。
この頃に忘れられないのはアメリカの原子力空母エンタープライズの佐世保入港です。
 すでに佐世保には1964年に原子力潜水艦シードラゴンが入っており、再度の事態に長崎被災協も怒りをこめた「声明」を発表して抗議の意思を示したのでした。
 こうして迎えた被爆25周年の年−。国家補償の被爆援護法を求める4月の中央大行動に、長崎被災協は13名の代表団を送り込んだのでした。
 国家補償の被爆者援護法を求める声が高まる中で。1971年8月、はじめて広島の原爆慰霊祭に出席した佐藤栄作首相は、「援護法は考えない」と冷淡な態度で対応しました。長崎被災協としても、これに抗議したのは当然のことです。
 同じ8月、自民党被爆者対策調査団が長崎を訪れ、長崎被災協などの被爆者団体は援護法制定を求めて陳情を行いました。しかし、自民党側は、一般戦災者との均衡を盾に否定的な態度を示すだけでした。
 こうした状況を打破しようと、中央行動も繰り返されました。長崎からも積極的に参加しました。
1973年になり、日本被団協はこれまでの要求を整理し、「被爆者援護法要求骨子」をまとめ、各党への支持を訴えました。自民党以外の各党は、これに積極的に対応し、それぞれ「援護法要綱」を発表しました。日本被団協は、11月にかつてない規模の中央行動を呼びかけ、氷雨の中の厚生省前での座り込みなどの行動を繰り広げたのでした。長崎からも故武田健三郎さんを団長に24名が参加しました。
 こうして74年3月、「被爆者援護法」案は社会・共産・民社・公明の野党4党共同提案で衆議院へ提出されたのです。
 被爆者援護法案はなかなか陽の目を見ませんでしたが、1975年には4月に衆院社労委で、6月には参院社労委で、被爆者が参考人として意見を陳述、また6月10日には参院の被爆者対策調査団が来崎、被爆者団体代表として当時の小佐々会長、葉山事務局長(現会長)も出席して原爆被害の実態を述べ、被爆者援護法の必要を強調しました。
 しかし、国会では被爆者援護法案は審議未了、廃案となっています。その一方保健手当、家族介護手当が新設され、健康管理手当の年齢制限が撤廃されるなどの前進が実現、被爆者対策費は前年比64%増となったのでした。
 欠陥原子力船「むつ」の受け入れが表面化したのも1975年。長崎被災協の第12回定例評議員会も反対を決議しましたが、1978年10月、造船の不況対策を口実に「むつ」は佐世保に入ったのでした。
 1976年は長崎被災協、日本被団協にとって結成20周年の年。この年の5月には新聞『被団協』が創刊 され、また日本被団協に中央相談所が開設されたのもこの年でした。
 1977年4月、日本被団協は述べ2000人の中央行動を展開、長崎からも現会長葉山利行さんら16名が参加しています。
 1977年7月、国連NGOによる『被爆の実相とその後遺・被爆者の実状に関するシンポジウム』がはじまりました。このシンポジウムには、準備の段階から長崎被災協も積極的に対応しました。被爆者調査などこのシンポジウムへの取り組みの成果は「原爆被害の実相・長崎レポート」としてまとめられ、7月末の広島でのシンポジウム本集会に間に合うように刊行されました。それは、それまでにみられない重厚な内容の「原爆白書」でした。
 シンポジウムは成功のうちに終わり、長崎ではこのシンポジウムにかかわり、原爆被害の解明に力を注いだ被爆者、研究者、協力者らによって長崎「原爆問題」研究普及協議会(略称・長崎原普協)が結成され、その後ユニークな研究・調査を繰り広げました。しかし、残念ながら被爆50周年の1995年に事実上活動の幕を閉じたのでした。
 あけて1978年3月、韓国人被爆者孫振斗さんの被爆者手帳をめぐる裁判で最高裁判所は、原爆医療法について「実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは否定できない」という判決を下しました。
 来年3月は、その原爆医療法が制定されて45周年を迎えます。
 この頃、中央では日本被団協、日本生協連、全地婦連、日青協、宗教NGOによる原水爆禁止運動統一への努力も実を結び、1978年の世界大会は統一集会として開催されました。長崎では長崎被災協は県生協連、県地婦連、県青年団、日本山妙法寺などと提携し、市民団体の中核となって統一集会成功のために積極的な役割を果たしました。
 この取り組みは、原爆被害への国家補償を求める運動をも大きく発展させました。中央では、前に揚げた5団体に婦人有権者同盟など6団体が加わった11団体で構成する「被爆者問題市民懇談会」が2000万署名運動を開始、長崎被災協も10万を目標に取り組みました。
 78年の最高裁判決とそれにつづく広範な被爆者援護法制定運動の展開に対抗できなくなった厚生省の苦肉の策が「基本懇」(原子爆弾被爆者対策基本問題懇談会)の設置でした。中央地方で被爆者の意見聴取をはじめました。長崎被災協はこれに誠実に対応、原爆被害の実相を語り、国家補償の必要性を訴えました。1980年の暮れ、「基本懇」は意見をまとめて発表しました。それは何と「原爆の被害も受忍(がまん)せよ」という内容だったのです。
 1980年代の被爆者運動は、「基本懇」意見を乗り越え、新たな意気込みで核兵器の廃絶と国家補償の被爆者援護法制定をめざす取り組みとして発展しました。その出発は原爆投下の犯罪性を告発し国の戦争責任を裁く「国民法廷」− 長崎被災協も積極的に取り組み、81年8月と10月に桜町の勤労福祉会館で開催し、大きな反響を呼びました。また、修学旅行生への「語りべ」活動も81年頃から定着しています。
 1982年には、長崎大水害の年。この年に長崎被災協は、第2回国連軍縮特別総会に8名を派遣するなど国際活動にも力を入れました。日本被団協の「被爆者要求調査」に取り組んだのは1983年から84年にかけてのことでした。長崎では1356名の回答を集めて独自に「まとめ」を発表。日本被団協はこの時の調査をもとに報告書「今、被爆者が願っていること」を作成し、調査に込められた被爆者の願いは、全国的な討議を経て『原爆被害者の基本要求』へと結実したのでした。
 被爆40周年の85年、運動はさらに前進し、2月から3月にかけては県内行脚に成功、被爆者援護法制定を求める声は国民の87%という世論調査の結果も報じられました。
 国際平和年の1986年、長崎被災協は長崎の証言の会、長崎「原爆問題」研究普及協議会、日本科学者会議長崎支部、長崎マスコミ共闘会議と共催して、次のような連続シンポジウムに取り組んでいます。
@3月「原爆投下と被爆者」
A5月「核廃絶と非核都市宣言」
B7月「チェルノブイリ原発事故」
C10月「SDIと核兵器廃絶」
D12月「被爆者は、いまーそのからだ、こころ、くらし」
 翌87年には、日本被団協の『「被爆者調査」の結果をふまえ、核兵器廃絶と原爆被害者援護法の即時制定をせまる大運動』がスタート。11月の中央行動に長崎からは民医連、高教組、原水協などからの参加者を含めて総勢32名の代表団を送り込みました。
 長崎原爆松谷訴訟がはじまったのは1988年。93年の長崎地裁判決、97年の福岡高裁判決を経て、2000年7月には最高裁でも原告松谷英子さんが勝訴したのでした。
 ところで被爆45周年の1990年は、右翼による本島市長狙撃事件で明けました。この事件の2日後には被爆者援護法実現を求める日本被団協の総決起集会が広島でひらかれ、このときも長崎からは30名が参加しています。
 被爆45周年の1990年―日本被団協の運動は飛躍的に前進し、長崎被災協も積極的な取り組みを展開しました。ほとんど毎日行われた中央行動に、長崎からも可能な限り毎回参加しています。さらに10月行動には25名の代表団で臨み、12月行動には15名の代表を送っています。
 その中には、いまは故人となられた山口美代子さん、光石信幸さん、西本輝夫さん、土本ミツさん、池田正明さんらのお名前が見られます。長崎での国家補償の援護法を求める国会請願署名運動には、80名余が呼びかけ人に名を連ね、集まった署名は20万を超えたのです。(最終集計2023200)この年、厚生省は「原爆死没者調査」の結果を発表しました。長崎被災協でも、この内容について独自の立場から分析し、<原爆死>の実態を明らかにしたのでした。(長崎原普協『現在の被爆者問題』所収)
 これらの運動は直接「国家補償の被爆者援護法」に結びつかなかったものの、諸手当の所得制限を緩和させ、健康管理手当の期間を5年に延長させるなどの成果をもたらしたのです。
明けて1991年6月、長崎被災協は結成35周年の記念式典と祝賀会を盛大に挙行しました。
 国家補償の被爆者援護法案が野党の共同提案として国会に提出されたのは、1974年3月。その後毎年提出されたものの、自民党の壁に阻まれてきました。
 それが1989年12月と92年4月、立て続けに2度も参院を通過したのです。残念なことに衆院では会期切れ、あるいは解散によって2度とも廃案となりましたが、参院通過は被爆者を元気づけました。国会請願署名はさらに前進、長崎県選出国会議員は1人を除いて全員が被爆者の取り組みに賛同、県下すべての地方議会から「国家補償の被爆者援護法を」の意見書が政府に送られたのです。
 80年代半ばには100校程度だった修学旅行生への被爆体験講話の数も国民的な関心を反映してか、91年には362、92は420、95年は605と大きく伸びています。
 被爆50周年を控えた1994年秋、各種の世論調査で被爆者を支持する声は6割、7割に達しました。
 そしてこの年の12月14日「被爆者の援護に関する法律」が制定されました。しかし、それは、国家補償を拒むものであって、被爆者と国民が望んだ「被爆者援護法」ではありませんでした。こうして1995年、被爆者運動は新たな局面を迎えたのです。
 新しくできた「被爆者の援護に関する法律」は、「一日も早い核兵器の廃絶を」を強調、さらに国家補償ならぬ「国の責任」での援護措置という「戦争被害受忍論」に立ったものでした。長崎被災協は、「原爆問題」研究普及協議会(原普協)に呼びかけて1995年1月にひらいたシンポジウムで新しく制定された法律の本質を明らかにしたほか、各種の集会などで原爆被害への国家補償を求める意義を明らかにすることに努めてきました。
 しかし「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」という長い名称が「被爆者援護法」と略称されたこともあり、あたかも国家補償の被爆者援護法が制定されたかのようなう雰囲気が生まれたのも事実でした。
 こうしたなかで、長崎原爆松谷訴訟は、2000年7月、ついに最高裁での勝訴判決を勝ち取りました。
 しかし、厚生省は自らの誤りを反省するどころか、2001年5月には新たな基準を設けて逆に締めつけを強化、原爆症の認定はきびしさを増したのでした。
 結成から45年目を迎えた日本被団協、長崎被災協は、「ふたたび被爆者をつくるな」と、いま、新たな意気込みでの取り組みを始めています。