長崎少年合唱団−長崎少年少女合唱団

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旧・公式サイトからよみとった歴史

長崎市にいまある児童合唱団でいちばんふるいのは “長崎少年少女合唱団” です.以前の公式サイトには,とてもくわしい記録が出ていましたが,残念ながら2019年5月のおわりに消滅して,いまの情報を中心としたブログにかわりました.その旧・公式サイトにあった情報をもとに,合唱団の歴史をまとめてみました(わからないことがあるので,指導の先生をたずねてお話をうかがいたいと思っています).

はじめは男子だけの少年合唱団

合唱団ができたのは1966年5月です.はじめの名前は “長崎県児童少青年センター長崎少年合唱団” で,男子だけの少年合唱団でした.1968年4月に “長崎県少年合唱団” となったあと,1969年12月に女子を入団させました(女子が全団員の3割).さらに1970年12月 “長崎県長崎少年合唱団” にかわりました.この名前がずっとつづきましたが,1998年9月に “長崎少年少女合唱団” となりました.

えらばれた人だけが入団できた

1966年と1967年は,新入団員の “面接” がありました.1968年と1969年には “新入団員選考” となりました.このころの団員数は120-130人ぐらいでした.1969年11月の女子団員入団のときから1982年まで “入団テスト” がおこなわれていました.この14年ほどのあいだは毎年70人ぐらいの入団があり,団員数は190人から250人のあいだで,ふえたりへったりしていました.1983年からは入団テストがあったという記録はありません.

はじめは小学生だけの合唱団でしたが,1975年に “研究生” として中学校3年生までつづけることができるようになりました.合唱団ができてから,ながいあいだ,入団するのは小学校4年生でしたが,1988年には3年生と4年生が同時に入団しました.1994年にはふたたび3年生と4年生が同時入団,1995年に3-6年生と入団する学年がひろげられましたが,それでも団員数は166人で,このころから入団する人がへってきたことがわかります.そのあとも入団する学年がひろげられ,1997年には1-5年生,1998年には1-6年生,1999年にはさらに幼稚園児まで入団するようになりました.

2019年の旧サイトの情報では幼児から中学1年生まで入団できるようになっていましたが,新ブログの情報では小学校6年までとなっていて,これまでの流れとは反対に,入団できる学年がせまくなりました.いまは大学生までつづけることができるようになっています(団員数は30人ぐらいで,おおくは女子ですが,男子も何人かいます).

発表の場と曲目

合唱団ができた1966年と1967年に青少年センター(いまの“えきまえ”いきいきひろば)で “発表会” をひらきました.最初の “定期演奏会” は1971年で,このときから毎年春にひらいています(会場は長崎市公会堂または長崎市民会館).そのほか,1969年にひらかれた “長崎国体” をはじめとする大がかりなイベントや観光船の歓迎会で歌ったり,テレビに出たりしました.五島や壱岐,島原,平戸など県内はもちろん,沖縄や東京,さらにドイツやフランスまででかけて演奏をおこなっています.

1970年代のおわりまでの曲目は,小学校の教科書(いまとちがってポップスはない)にのっている曲やヨーロッパの民謡・新作の曲(これらは “みんなのうた” でさかんに日本語の歌詞をつけて放送されました)がおおかったようです.ほかに“長崎国体の歌” “長崎国体音頭” といったイベント関係の曲や “流浪の民” のような古典曲もありました.1979年には “白雪姫と七人の小人たち” にとりくんで,それからずっとミュージカルに力をいれています.このころからポップスの曲もたくさん演奏するようになりました.

ほかの合唱団との交流

1970年に諌早少年合唱団が結成されるとき,賛助出演したのがほかの合唱団との交流のはじまりで,その年に佐世保で “第1回長崎県少年合唱団合同演奏会” がひらかれました.1971年にはフランスの “木の十字架少年合唱団” 長崎公演に賛助出演しました.1974年の東京公演では杉並児童合唱団と交歓会がひらかれ,これをきっかけとして,1976年の “杉並会議” 結成に参加しました.そのあとも,県内・県外・外国の合唱団との行き来や杉並会議での活動がつづいています.長崎県少年合唱団合同演奏会は2019年で第47回になりました.

(ここまで2019年8月24日まとめ)

長崎少年合唱団の卒業生にお話をうかがっていますので,近いうちに紹介します.

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