● 「資料」
参考資料(『吉川幸次郎全集』第五巻 筑摩書房 昭45)
1「論語」について
この書物でいちばん多くトピックになっているのは、多くの学者が指摘するように、「仁」ということばである。「仁」ということばの定義は、学者によって一定せず、またそもそも一定した定義を、得らるべきことばであるかどうか、疑問であるが、人間の人間に対する愛情、それを意志を伴って、拡充し実践する能力、というふうに、私は理解している。そうしてそれが、人間にとって何よりも重要な任務であるとされたことは、
−−士はもって弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁をもって己が任と為す、また重からずや。死してのち已む、また遠からずや。−−
これは孔子のことばではなく、弟子の曾参のことばであるが、それによって示される。
ところで、「仁」を中心とする孔子の主張には、三つの重要な特殊さがある。
第一は、それが人間の人間に対する愛情でなければならぬことである。神に対する愛情ではむしろない。「仁」という字を字形の上から分析して、「人」と「二」の結合であるとするのは、一種のポピュラー・エティモロジーであろうが、案外あたっていないものでもない。人間の道理の基準として、まず意識され尊重されたのは、人間に何よりも近い、ほかならぬ人間そのものであった。これは卑近なものの尊重であり、現実的なものの尊重である。したがって人間の中でも、まずたいせつなのは、親であり子であり兄弟であった。「仁」の出発点は親子兄弟のあいだの愛情にあるとは、またひとりの弟子である有若のことばである。
第二は「仁」の正しい行使のためには、必ず学問による広い知識が必要であるとすることである。つまり、正しい愛情は人間の種々相を知ってのちにはじめて成立するというのである。これは人間の生活の多様さに敏感であり、人間の可能性をさまざまの形で容認しようという寛容な心理のうえに立っている。更にまた孔子が知識の内容として、文学と音楽を重視したことは、たいへん重要である。「詩」と「楽」とは、孔子の教団の重要な教科であった。いずれも人間の感情生活の重視を意味する。また同様に重視されたのは「礼」であって、これは人間の善意の表現としての、家庭もしくは政府における儀式の習練である。このことは秩序と調和の尊重を意味する。多様性に敏感な心が、秩序と調和に敏感であるのは当然である。したがって感情まるだしの生一本な行動は、排斥される傾向にある。これが第二の特殊な点である。
第三の特殊さは、愛情の行使は政治を通じてすることが、最も効果的であるとすることである。これは人間には政治をする階級と、政治をされる階級とがあると意識された孔子の時代として、当然のことであるが、「論語」の中には、政治をする階級への教訓として書かれたことばがたいへん多い。その意味でこの書物は、倫理の書物であるとともに、政治の書物である。また孔子その人は思想家であり、学者であり、教師であるとともに、思想家であり学者であり教師である能力をはたらかせて、政治家となろうとしたのであった。もっとも、それら政治のためのことば、あるいは政治をする階級のためのことばの多くも、それ以外の範囲に適用されて役立つほどの優秀さをもっていることは、事実である。しかしそここそにこの書物の限界があることも、事実である。これが第三の特殊な点である。
参考文献
〔注釈〕
安井息軒『論語集説』(漢文大系) 冨山房 昭54
簡野道明『論語解義」明治書院 昭6
吉田賢抗『論語』(新釈漢文大系) 明治書院 昭35
金谷 治『論語』(岩波文庫) 岩波書店 昭38
吉川幸次郎『論語」(中国古典選) 朝日新聞社 昭伽40
平岡武夫『論語』(全釈漢文大系) 集英社 昭55
桑原武夫『論語』筑摩書房 昭57
司馬遷『史記』(孔子世家・仲尼弟子列伝)(世界文学大系) 筑摩書房 昭37
〔研究書〕
諸橋轍次『論語の講義』大修館 昭48
宮崎市定「論語の新研究」岩波書店 昭49
貝塚茂樹『孔子』(岩波新書) 岩波書店 昭35
加地伸行『孔子』集英社 昭58
武内義雄『中国思想史』(岩波全書) 岩波書店 昭32
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作品鑑賞「論語」
孔子の学問の対象は、「詩・書・礼・楽」など、古来の聖賢の道である。学問の目的は、それらを素直に受け取って、人格の完成をめざすものであり、空理空論をこねまわすことではない。重要なことは、あくまでも人間として、先王の教えからはずれないように自ら律していくことであった。その学習の過程は、常に学び且つ思う(思索する)という調和のとれたものでなければならない。そのためには不断の努力を必要とするが、孔子はそこに、限りない喜びを感じ、且つ道を通じての朋友との交わりに楽しさを見いだしており、他人が自分を評価してくれないことなどは問題にしていなかった。
その学問の具体的な内容は、『詩経』や『書経』などの経典を読むことであり、礼や楽を学ぶことであって、人間生活の秩序を守ることから遊離したものではない。「仁」(人間愛)といい、「忠」(誠の心)といい、「恕」(思いやり)、「孝」(父母への心づかい)、「悌」(目上の人への奉仕)、「信」(信義の心)、「礼」(社会と個人のきまり)、「楽」(祭りの正しい音楽)など、孔子の言う徳目がすべてそのことを示している。したがってそれらを身につけるために「習」ということにも重点が置かれており、「学」と「習」と、つまり思索と復習とが平均して尊重されている。
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参考資料ー
孟子の理想 金谷 治
孟子の理想とは何であったか、かれの思想が封建的な体制の維持に役立つものを持っていたことはすでにのべた。かれの理想とする世界の平和や秩序が、何ほどかその色形を帯びていることは否定できない。しかし、そのことよりもさらに重要なのは、そしていくら強調してもしすぎることはないと思えるのは、かれのまじめな人道主義的立場である、そこにこそ、かれの理想の中心はあった。「忍びざるの心」すなわち他人の不幸をそのままで見すごすことのできない同情心、それが万事の根本である。いわゆる王道政治の根幹である。たび重なる戦争にかりたてられ、重税のとりたてに苦しめられる民衆の生活は、みじめであった。世界の平安は、まずそうした民衆の経済生活の向上から着手しなければならない。「恒産なきものは恒心なし」。安定した収入を持たないものには安定した心もないというのは、有名なことばである。すべての民衆に恒産を得させることを、孟子は念願したのである。その理想は正しい。そして、その問題は、今日といえどもなお残されている。儒教が、封建体制をささえるイデオロギーとしての性格を持ちながら、他面ではまた極端な専制主義におちいることをひきとめて、あるていどの合理的な統治を可能にさせてきたのは、この人道主義的な立場によるものであった。
諸侯を中心とする当時の為政者たちに対する孟子の態度は、まことに毅然たるものである。みじんの迎合もない。孟子の道を信ずること厚く、そこから出てくるかれの人道主義的な立場は、為政者たちのごつごう主義に妥協することを許さなかったのである。「民衆こそが貴い、君主は軽い」ということばは、恐らく当の君主に向かって説かれたものではなかろうが、やはり千金の重みを持っている。専制的な体制のきびしくなったのちの世からみれば、かれのそうした態度はまことに不遜きわまるものであった。
さて、王道の根幹である「忍びざるの心」こそすなわち仁心である。孟子は、それがだれの心にも生まれつきに備わっているということを強調した。いわゆる性善説である。それは生まれの血統や、社会的な身分の相違によって左右されるものではなかった。極悪人でさえも、もともとこの心を持っていた、と考える。ここに人間の本性についての平等観がみられるのは重要である。人間の人間らしさはそこから出てくる。問題は、この仁心を大切に育てて十分に発揮させることであつた。人間の社会は、そうした万人の人道主義的な活動によってこそ円満な発展をとげていくものである。そして、真に安らかなしあわせな世界は、そこにこそ開けるものである。孟子はそれがだれにも備わっている善なる本性の展開として十分に可能であることを固く信じたのであった。そこには、また人間性に対する熱い信頼の心が見られる。それは楽天的な心情にもとづいているといってよいであろう。
楽天的な心情とか、人間性に対する信頼などということは、すこぶる古代的で牧歌的なひびきがある。それは、もはや今日の世界では通用しない縁遠いことのように思えるかも知れない。たしかに現代はきびしい。しかし、きびしいからこそ、われわれの人間関係は、その人間らしさを恢復するために、この牧歌的な心情を一層必要とするのではないか。人間は、どんなにだまされることがつづいても、やはり他人を信じていたいという希望を失うことがない。それが人間である。人間社会の平安は、人間どうしがたがいに完全な信頼関係にたつときに生まれる。そして、道徳が栄えるのは、そのような楽天的な心情が普遍的になった時である。道徳の鼓吹者にとって楽天的な世界観がいかに必要であるかはいうまでもない。孟子が本質的に楽天家であるのは、当然といってよかろう。(金谷治『孟子』序説 岩波新書 昭41)
参考文献
〔注釈〕
『四書』 (孟子) (漢文大系1) 冨山房 昭53
簡野道明『孟子新解』明治書院 昭10
金谷 治『孟子』(中国古典選) 朝日新聞社 昭30
内野熊二郎『孟子』(新釈漢文大系) 明治書院 昭37
宇野精一 『孟子』(全釈漢文大系) 集英社 昭48
〔研究書〕
金谷 治『孟子』(岩波新書) 岩波書店 昭41
鈴木修次『孟子』集英社 昭59
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孟子
○性善
告子曰「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也」
孟子曰「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有下善、水無有不下。今夫水、搏而躍之、可使過・、激而行之、可使在山。是豈水之性哉。其勢則然也。人之可使為不善、其性亦猶是也。」(告子上)
【口語訳]
性善
告子が言うには、「人の本性は(せきとめられて)うず巻いている流れのようなものだ。これを(せきを)切って東方に落とせば、すなわち東に流れるし、これを(せきを)切って西方に落とせば、すなわち西へ流れる。人の本性に善・不善の区別がないのは、水に東流し西流する区別がないようなものである」と。
孟子は(それに反駁して)言う、「水には確かに東流し西流する区別はないが、上下の区別がないことがあろうか。人の本性が善であることは、水が低いほうに流れるようなものである。人の本性は善でないことはなく、水の本性は低いほうに流れないことはない。今、仮に水は手で打ってはねさせれば、人のひたいを飛び越させることもできるし、せき止めてあふれさせれば、山の上に上らせることもできる。しかしそれが、どうして水の本性だといえようか。外から加える勢いがそうさせているのである。人についても不善を行わせることができるのは、その本性がやはり(水の場合と同じく)外からの勢いに影響されるからである」と。
○王道
梁恵王曰「寡人之於国也、尽心焉耳矣。河内凶、則移其民於河東、移其粟於河内。河東凶、亦然。察隣国之政、無如寡人之用心者。隣国之民不加少、寡人之民不加多、何也」
孟子対曰「王好戦。請以戦喩。
填然、鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止。
以五十歩笑百歩、則何如」曰「不可。直不百歩耳。是亦走也」曰「王如知此、則無望民之多於隣国也。不違農時、穀不可勝食也。数罟不入(を)池、魚鼈不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀与魚鼈、不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也。」(梁恵王上)
【口語訳】
梁の恵王が言うには、「私は国を治めるについては、それはもう心を十分に尽くしている。(たとえば)河内が凶作なら、その民を河東に移し、その穀物を河内に移す。河東が凶作なら、やはり同じようにする。ところが隣国の政治を見てみるに、私のように心を使っている様子はない。(にもかかわらず)隣国の民がしだいに減っていくこともないし、私の所の民がしだいに増えることもないが、これはどういうわけであろうか」と。
孟子が答えて言うには、「王は戦いがお好きです。戦いにたとえてお答えしましょう。
今、ドンドンと(進軍の)太鼓を打ち鳴らし、(敵味方が)斬り合いを始 めました。(一方が)よろいを捨て武器を引きずって逃げだしましたが、 そのうちのある者は百歩で踏みとどまり、ある者は五十歩逃げてとどまりました。
このとき五十歩で踏みとどまったからといって、百歩でとどまった者を(臆病者と言って)笑ったとしたら、いかがなものでございましょうか」と。王は、「それはいかん。ただ百歩でなかったというだけだ。その者もやはり逃けたのだから」と言う。(孟子はそこで)言った、「王様にそれがおわかりなら、民が隣国より多くなるのをお望みになってはいけません。さて(民を使役するのは冬期にして)農作業の時期をたがえないようにすれば、穀物は食べきれないほどになります。目の細かな網を池や沼に入れないようにすれば、魚やすっぽんは食べきれないほどになります。(樹
木を伐るのに適した)時期に山林に斧斤を入れて樹木を伐るようにすれば、材木は用いきれないくらいできます。穀物と魚・すっぽんは、食べきれないほどあり、材木は使いきれないほどあれば、民が家族を養い、死者を厚く弔うのに、心残りがないようにさせられます。家族を養い、死者を弔うのに、心残りのないようにすることが、王道の始めなのです」と。
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中国の詩
<五言絶句>
○独坐敬亭山(李白)
衆鳥高飛尽
孤雲独去閑
相看両不厭
只有敬亭山
○秋夜寄丘二十二員外(韋応物)
懐君属秋夜
散歩詠涼天
山空松子落
幽人応未眠
○秋風引(劉禹錫)
何処秋風至
蕭蕭送雁群
朝来入庭樹
孤客最先聞
○尋胡隠君(高啓)
渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覚到君家
<七言絶句>
○九月九日憶山東兄弟(王維)
独在異郷為異客
毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処
遍挿茱萸少一人
○秋思(張籍)
洛陽城裏見秋風
欲作家書意万重
復恐匆匆説不尽
行人臨発又開封
○夜雨寄北(李商隠)
君問帰期未有期
巴山夜雨漲秋池
何当共剪西・燭
却話巴山夜雨時
○澄邁駅通潮閣(蘇軾)
余生欲老海南村
帝遣巫陽招我魂
杳杳天低鶻没処
青山一髪是中原
<五言律詩>
○臨洞庭(孟浩然)
八月湖水平
涵虚混太清
気蒸雲夢沢
波撼岳陽城
欲済無舟楫
端居恥聖明
坐観垂釣者
徒有羨魚情
○月夜(杜甫)
今夜・州月
閨中只独看
遥憐小児女
未解憶長安
香霧雲鬟湿
清輝玉臂寒
何時倚虚幌
双照涙痕乾
七言律詩
○左遷至藍関示姪孫湘(韓愈)
一封朝奏九重天
夕貶潮州路八千
欲為聖明除弊事
肯将衰朽惜残年
雲横秦嶺家何在
雪擁藍関馬不前
知汝遠来応有意
好収吾骨瘴江辺
○遊山西村(陸游)
莫笑農家臘酒渾
豊年留客足鶏豚
山重水複疑無路
柳暗花明又一村
簫鼓追随春社近
衣冠簡朴古風存
従今若許閑乗月
・杖無時夜叩門
古体詩
○陟・
陟彼・兮
瞻望父兮
父曰「嗟予子
行役夙夜無已
上慎旃哉
猶来無止」
陟彼・兮瞻望母兮
母曰「嗟予季
行役夙夜無寐
上慎旃哉
猶来無棄」
陟彼岡兮
瞻望兄兮
兄曰「嗟予弟
行役夙夜必偕
上慎旃哉
猶来無死」
○古詩
行行重行行
与君生別離
相去万余里
各在天一涯
道路阻且長
会面安可知
胡馬依北風
越鳥巣南枝
相去日已遠
衣帯日已緩
浮雲蔽白日
游子不顧返
思君令人老
歳月忽已晩
棄捐勿復道
努力加餐飯
○七歩詩(曹植)
煮豆持作羹
漉・以為汁
・在釜下然
豆在釜中泣
本自同根生
相煎何太急
○責子(陶潜)
白髪被両鬢
肌膚不復実
雖有五男児
総不好紙筆
阿舒已二八
懶惰故無匹
阿宣行志学
而不愛文術
雍端年十三
不識六与七
通子垂九齢
但覓梨与栗
天運苟如此
且進杯中物
○遊子吟(孟郊)
慈母手中線
遊子身上衣
臨行密密縫
意恐遅遅帰
誰言寸草心
報得三春暉
○売炭翁・・苦宮市也。(白居易)
売炭翁
伐薪焼炭南山中
満面塵灰煙火色
両鬢蒼蒼十指黒
売炭得銭何所営
身上衣裳口中食
可憐身上衣正単
心憂炭賎願天寒
夜来城外一尺雪
暁駕炭車輾氷轍
牛困人飢日已高
市南門外泥中歇
翩翩両騎来是誰
黄衣使者白衫児
手把文書口称勅
廻車叱牛牽向北
一車炭重千余斤
宮使駆将惜不得
半疋紅紗一丈綾
繋向牛頭充炭直
●34回生教科書「新国語U(古典編)明治書院」
古体詩三首
○桃夭
桃之夭夭
灼灼其華
之子于帰
宜其室家
桃之夭夭
有・其実
之子于帰
宜其家室
桃之夭夭
其葉蓁蓁
之子于帰
宜其家人(「詩経」)
○勅勒歌
勅勒川
陰山下
天似穹廬篭蓋四野
天蒼蒼
野茫茫
風吹草低見牛羊(「楽府詩集」)
石壕吏(杜甫)
暮投石壕村
有吏夜捉人
老翁踰墻走
老婦出門看
吏呼一何怒
婦啼一何苦
聴婦前致詞
三男・城戍
一男附書至
二男新戦死
存者且偸生
死者長已矣
室中更無人
惟有乳下孫
孫有母未去
出入無完裙
老嫗力雖衰
請従吏夜帰
急応河陽役
猶得備晨炊
夜久語声絶
如聞泣幽咽
天明登前途
独与老翁別(「杜工部集」)
●「妖女抄」成瀬哲生(小学館)
三国鼎立の時代は、二八〇年、晋(西晋)の中国統一によって幕をとじた。しかし、晋は王朝内部の政権あらそいにうつつをぬかし、三一六年、匈土に攻め込まれてほろんだ。その一族は南にのがれて晋(東晋)を復活した。その後、華北では、五胡十六国と呼ばれる遊牧系諸民族の興亡がつづいたが、その混乱に終止符をうち、華北に久しぶりに安定をもたらしたのが鮮卑族のたてた北魏である。胡充華(こじゅうか)は皇帝の母親として権力をにぎった。
殺される母
胡充華は北魏の第七代皇帝宣武帝(四九九〜五一五在位)の皇后であり、第八代皇帝孝明帝の母親である。彼女は北魏において、皇帝の母親として権力をにぎった最初で最後の人である。おさない帝を補佐すると称して母親がのりだしてくることは他の王朝ではよくある話であるが、北魏においては、本来、起きるはずのない事態であった。というのは、初代の道武帝(三八六〜四〇九在位)が「北魏では皇太子の母親は殺す」という「おきて」を残していたのである。
このなんとも不可解なおきては、けっして鮮卑族の習俗に由来するものではない。道武帝は、漢の武帝にならって、母親殺しを国家の安定のための「長久の計」と考えたのである。道武帝は長男の第二代皇帝明元(めいげん)帝につぎのように告げている。
「むかし、漢の武帝はその子を皇太子に立てたとき、その母親を殺した。それは、自分の死後に、婦人が国の政治に関与したり、外戚が乱を起こすことを未然にふせぐためであった。おまえが後継者だからこそ、わたしは遠く漢の武帝にならい、長久の計を実行するのだ」
まだ少年であった明元帝は母親を殺されると知って、昼も夜も号泣したという。後継者を生んだばかりに、母親の劉貴人(りゅうきじん)は北魏における最初の犠牲者となったのである。
制度と現実
しかし、漢の武帝が鉤戈(こうよく)という夫人を殺したのは、この北魏のように制度化されたおきてがあったためではない。たとえでっちあげにしろ、鉤戈夫人の罪によるものであった。
北醜の場合、母親殺しが制度としておこなわれたため、後宮の女が男の子を生むということは、身の危険の可能性が非常に高くなるということであった。そのため、男の子が生まれてもすぐ殺してしまうようになってしまい、制度としての母親殺しは、結局、実態としては「男の子殺し」になったのである。また、男の子が(殺されることなく)成長して皇太子などになっても、母親は殺されてしまって「不在」のため、その養育にあたった保母が隠然たる力を持つようになった。
いずれも道武帝が予想もしなかった現実であったろう。制度に依存すればするだけ、その制度をうらぎるような現実が発生するということであろうか。