中ノ島炭坑 操業時?

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。
内容<写真は島の先輩より>
 昭和30年代でしょうか、それとも40年代の撮影でしょうか?。海を隔てた先に見えるのが中の島です。中の島は、端島と高島の間に位置する島になります。
   MapFan地図へ
 今では無人島ですが、明治初期の頃は、端島や高島と同じように炭坑が存在しておりました。
 ちなみに、端島からの光景で、写真右側には65号棟や病院の建物が写っています。

内容<2008年撮影>
 このコーナーでは、島左側の高い山の部分を「山の部分」、中央の低い山の部分を「中央部分」、右側の海面より若干高い部分を「岬の部分」の言葉で説明します。

究極の中ノ島サイト
  下記の両サイトは、非常に詳しく調べられており、大変参考になります。是非、ご覧願います。
     ・ 「軍艦島」 の中にある 『中ノ島』
     ・ 「廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-」 の中にある 『【特集】中ノ島 #01 - 廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-』

写真《端島より中ノ島を望む》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 明治10年に試錐を開始し、明治12年に立坑開削に着手、明治16年に出炭開始、明治26年に坑内出水の増大により廃坑の中ノ島炭坑です。煙突から煙が出ているので操業時と考えますと明治26年以前の撮影かと思います。
 中ノ島操業時?、島には数多くの建物があったことがお分かり頂けると思います。
 島の半分ぐらいは護岸が設けられており、岬の部分では護岸上に長屋のような建物が複数見えておりますが、「2008年の中ノ島」の写真では、島全体、護岸の姿はありませんし、岬の部分には建物が建つような場所があったようには思えません。また、昔は、岬のかなりの部分まで護岸が設けられていたことに驚きを覚えます。
写真 《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大1 
 中央部分の右端から岬の部分にかけての光景です。写真左側にはボタ山、また、写真右側には長屋?らしき姿が見えます。なお、資料原本を拝見しますと、両者の間には護岸が存在しない場所や護岸工事中のような部分もあります。ついては、自然災害等にて護岸が一部崩壊したときの光景ではないかと推測しております。
写真 《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大2 
 中央部分の光景です。一番奥には櫓と煙突が、その手前には、割と大きい二階建ての建物が、写真手前の護岸には排水口らしき姿が見えております。  
写真 《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大3 
 山の部分の光景です。写真右側では護岸の姿が見えますが、中央付近には護岸の姿はなく、建物の基礎が露出して建物を支えている柱の姿が見えます。現在、この場所や岬の部分等の岩盤上には穴が多数存在しておりますが、当時の支柱を柱を収めていた穴ではないかと推測しております。
写真 《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大4 
 山の部分、山頂付近の光景です。山頂付近にも数多くの建物が有るようですが、この場所、昭和37年に完成する公園が有った場所とほぼ同じではないかと思っております。

写真《高島炭鉱中島写真》
<写真は長崎市立博物館所蔵、許可を得て掲載、二次利用禁止です。>

 上記の写真と同じく、中の島の端島側光景です。写真中央には、護岸と同じ高さぐらいのボタ山とボタの投棄設備らしき姿が見えます。なお、ボタ山とボタの投棄設備らしき姿は、上記「端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大1」にも写っておりますが、そちらの写真のボタ山は護岸から更に高く投棄設備と同じぐらいの高さとなっております。

写真 《端島より中ノ島を望む》     <「中ノ島」写真(グラバー写真より)
 長崎県立長崎図書館所蔵、二次利用禁止です。>

 タイトルは「端島より中ノ島を望む」となっておりますが、高島の下二子から望む中ノ島と端島の光景かと思います。写真中央部分にあるのが「中ノ島」で、その右側の島が「端島」と思います。「中ノ島」では、明治16年より出炭を開始し明治26年に廃坑となっております。煙突から煙りが出ており、また、立坑櫓らしき物も見え、おそらく、炭坑操業時の姿ではないかと思います。

写真《高島から端島・中の島を望む》  <2004年10月撮影>
 本写真は2004年10月に撮影した、高島から端島・中ノ島を望む光景ですが、本写真から高島の堤防と端島の高層建築物や護岸を除くと、左写真と同じ構図には見えないでしょうか?。

写真《グラバー資料アルバムより》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 資料の説明書き等はなく、「端島・中ノ島」とは断定できませんが、直ぐ上段の《端島より中ノ島を望む》とほぼ同じ構図の写真のようです。
 また、同資料が収められているアルバムの最後には、「政商グラバーのコレクションから」と題された特集記事(1986年10月18日付「朝日新聞(夕刊)」)があり、この写真と思われる映像も紙面に出ておりまして、「高島炭砿 明治14年ごろ」として紹介されていました。

 なお、撮影の地は、高島の下二子島からと思いますが、二子島に関する明治の記録としましては、『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)の209頁に、
 ・明治9年 日本最初の金剛試錐73m(240尺)を実施したが、めぼしい炭層は見付からなかった。
 ・明治17年 二子島借区が中ノ島とともに三菱に払下げられる。
 ・明治19年 二子島の仮坑区券を返上
 ・明治38年 鉱業用地として二子島全島を買収
とあり、撮影の頃の二子島は、炭砿の場所としては、まだ、本格的には利用されていなかったようです。

写真《グラバー資料アルバムより》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大
 (上段写真)の部分拡大版です。年代的に多少のずれはあるかと思いますが、明治14年ごろの中ノ島の姿に、思わず興奮してしまいます。

高島・中ノ島・横島へ次へ
TOP