想像・日給の建築過程

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。
 日給建築過程については、私が知る限り、下記の三通りのパターンがあります。
1.軍艦島実測調査資料集(阿久井喜孝 他 編著、東京電機大学出版局、1984、646頁より)
  大正7年(1918)、まず16・17号棟が9階建て18号棟が6階建てで竣工した。大正11年(1922)、19・20号棟が大廊下とも6階建てで増築される。次いで、昭和7年(1932)に18・19号棟が上に三層増築して9階建てになり、現在見られる形となった。
日給社宅の建築概要(軍艦島実測調査資料集の年代による)
内容 (a)T期 大正7〜11年  16,17号棟9階建て、18号棟6階建て
(b)U期 大正11〜昭和7年  16,17号棟9階建て、18,19,20号棟6階建て
(c)V期 昭和7〜12年  16,17,18,19号棟9階建て、20号棟6階建て
(d)W期 昭和12〜26年  階数変化なし、大廊下隅に便所ができる。
(d)X期 昭和26〜49年
 吹抜大廊下の手摺が木製からブロック積みモルタルの腰壁に変わり、柱補強コンクリート巻たて補修のため、より閉鎖的で重々しい立面図となる。
<上記図版及び図版説明文は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
 上記図版オリジナル版では、図(a)(b)における18・19号棟の赤い線の部分も黒線で表示されていますが、それは9階建て時点のものです。ついては、図(a)(b)の時代では、18・19号棟はまだ6階建てであり赤い線の部分はありませんので、これを表すため資料を改変しています。(階によって戸数は違います。)
2.高島炭砿史(三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、三菱鉱業セメント(株)、1989年、519・520頁より)
  大正7年(1918)端島に6階建社宅落成(16〜20号棟)、大正9年(1920)に端島に9階建社宅落成(16,17号)、昭和3年(1928)端島に、9階建社宅落成(18,19号)
3.三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、787頁より)
  16号から20号に至るアパート5棟が大正6年9月に着工され,翌7年6階まで完成するとともに,30号アパートと同様砿員社宅として使用された。この5棟は当初アメリカの会社によって9階建てアパートとして設計されたものであるが,その後増築(嵩上げ)工事が中断されていたところ,大正9年に16・17号,更に昭和3年に18・19号がそれぞれ9階に増築された。(20号アパートのみ6階のまま)。
 <「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 29』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、4610頁」の「社誌第二十五巻 大正七年 大正七年自一月自四月高島炭坑資本金及損u其他」>の中には「八階坑夫社宅新築工事ハ昨年ヨリ基礎工事ヲ續行」の記載があり、大正6年から工事が開始され、大正7年の1〜4月の間では基礎工事が続行されているのが分かります。なお、現在、私が確認できている工事費については下記のとおりです。
年月日予算区分名     称金  額引  用  元
大正5年
 12月25日
大正6年度
起業費
端島八階家新築費32,100円
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 26』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3354頁」の「社誌第二十三巻 大正五年 大正六年度各炭坑起業費」>
大正6年
 8月21日
大正6年度
臨時起業費
端島八階家新築工事費追加
60,000円
前回分 32,100円
計   92,100円
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 27』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3679頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 高島炭坑臨時起業費承認」>
 建物の名称は八階坑夫社宅や端島八階家となっていますが、国立情報学研究所の「CiNii 論文 - 9080 大正・昭和初期の高島炭坑端島坑社宅街の変遷(社宅,建築歴史・意匠)」の中に掲載されている「図3 端島炭坑々外送電線並配電線路実測平面図(大正7年)」では、日給の場所に「建築中 八階鉱夫長屋」との記載がありますので、「八階坑夫社宅や端島八階家」は日給のことのようです。
 また、「CiNii 論文 - 9080 大正・昭和初期の高島炭坑端島坑社宅街の変遷(社宅,建築歴史・意匠)」では、九州大学の1918年(大正7年)の実習報文に、「坑夫長屋ノ如キモ鉄筋混凝土ノ七階建ノ空ニ聳ユルアリ、又十二階建ノ坑夫納屋ノ設計既ニ成リ、近ク其ノ施工ニ着手セントス」と記述されている旨が記載されています。日給は最終計画としては「十二階建」ですが、取りあえずは、「八階」迄でということで建築が始まったのでしょうか?。 ちなみに、30号棟建築の決算額は47,570円74銭のようなので、日給の工事費は、大正6年8月21日の時点で30号棟の2倍弱の金額となっており、かなりの規模の工事費だと思います。
写真《長崎港外端島名勝 十二階》  <所有絵葉書>
 正面に写る建物は、日給の16号棟で9階建てとなってですが、絵葉書の名称には十二階の文字が使用されています。
 なお、十三階との記載もあるようで、「長崎商業会議所調査部、『長崎に於ける石炭の集散』、長崎商業会議所、大正七年八月二十日、三四頁」には、「端島の如きは地積狭隘なる為め工費五万円を投じて鉄筋コンクリート七階建家屋(外壁十一間に十三間、全建坪一千一坪、全戸数二百十戸、各戸四畳半乃至六畳、一戸毎に炊事場を附属す)を設備し、別に又十三階建の同式家屋建築中なり。」の記載があります。ちなみに、鉄筋コンクリート七階建家屋が30号棟で、十三階建の同式家屋が日給のことと思います。
内容《高嶋炭坑ゑはかき−上(病院レントゲン室)・中(建築中の十二階屋鉱夫社宅)・下(病院の廊下)》  <所蔵: 九州大学 記録資料館>
 絵葉書中央の写真は「建築中の十二階屋鉱夫社宅」との説明があり、日給社宅の文字はありませんが、前出の「十二階」により、また、十二階屋鉱夫社宅の右端には、下段の絵葉書にも出てくる「壁に貼り付くような建物」や旧14号棟の擁壁らしき物が見えますので、この写真は日給の建築工事の光景で、それも日給が16・17号棟のみで、高さについても5階建てぐらいの時の光景かと思います。
 貴重な資料が数多く収められてられている九大コレクションでは、左絵葉書の拡大画像が閲覧できますが次がそのURLです。
    http://hdl.handle.net/2324/403378
 拡大画像にある日給社宅西側側面(写真では左側)のスパーン数を数えますと「7」ではないかと思えますが、このページ一番下の「日給の6階と7階の住居戸数比較」の図を見ますと、16号棟の端から7スパーン目は、17号棟迄であることがお分かり頂けると思います。
内容《長崎港外三菱高島礦業所 端島坑 (九階建社宅方面)》  <所有絵葉書>
 この写真は、昔の日給の写真として一般的なものかと思います。写真左側の大きな建物が日給で、右側には旧13・14号・15棟が写っておりますが、15号棟は大正末頃にはない建物ですので、少なくとも大正年間中頃の撮影となるようです。ちなみに、日給社宅西側側面のスパーン数ですが、塔があって分かりにくくはなっておりますが、18号棟の4スパーン分が増えているようです。
内容
 日給周辺の拡大です。旧15号下の擁壁の手前には、前出記載の「壁に貼り付くような建物」が見えています。また、18号棟手前の部分では、19号棟の建築が始まっているように思えます。
内容 大廊下部分の拡大画像です。日給の建築パターンの内、軍艦島実測調査資料集の「16・17号棟が9階建て18号棟が6階建てで竣工」の説明が当てはまるようです。しかし、大廊下の南側においては、8・9階部分では「手摺り」が確認できませんが、3〜6階部分においては「手摺り」が確認できますので、もしかしたら、17号棟の7階以上が建築されている時の光景かとも思えます。
内容《端島坑外実測図〔部分〕 (大正十年度 高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図)  <九州工業大学附属図書館所蔵>
 自序には大正10年9月と記載されている実習調査報告書の別冊・実習調査報告書附図から、日給周辺を切り抜きました。
 16号棟には「九階建(現在十二階建造中)」と、17号棟には「七階建(現在十二階建造中)」との記載があります。また、19号棟が建つ部分ですが絵葉書《長崎港外三菱高島礦業所 端島坑 (九階建社宅方面)》の写真と見比べますと、未だ、古い建物が残っているようですのですので、絵葉書よりも若干早く描かれた図のように思います。
 なお、16・17号棟上部の擁壁と階段らしき構造は、上段の絵葉書《建築中の十二階屋鉱夫社宅》にもその姿を現しているように思います。
不確定要素が多く、間違えの可能性も大ですが、下記理由により、絵葉書《長崎港外三菱高島礦業所 端島坑 (九階建社宅方面)》は大正9年か10年頃の光景ではないかと考えました。
 実測図には19号棟の記載はなく、また、19号棟が建つ場所には昔の建物が記載されていること。
 絵葉書では19号棟1階の基礎部分において工事が始められているように思えること。とすれば絵葉書は実測図より後の状態と考えられること。
 「端島坑外実測図」が納められている「高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図」は大正10年の報告書であるが、「端島坑外実測図」には作成年の記載はなく大正10年よりも前の状態である可能性があり得ること。
 三菱鉱業社史には「大正9年に16・17号それぞれ9階に増築された。」との記載があること。
 軍艦島実測調査資料集には「大正11年(1922)、19・20号棟が大廊下とも6階建てで増築される。」との記載があり、絵葉書は大正11年以前の撮影と思われること。
また、日給の建築過程を下記のとおり考えました。
 結果、十二階への増築は行われませんでしたが、その意志はあり、また、着工もなされていたこと。
 少なくとも17号棟が9階建てとなったのは初めからではなく、増築により9階建てとなったこと。(16号棟についても同様かと考えます。)
 16〜20号棟の建築については、同時着工ではなく、順次、着工されたこと

 ちなみに、<日下部義太郎、『相知、高島の二十年』、石炭時報、第三巻第十一号、昭和三年十一月、三五頁>には、「端島に坑夫住宅を鐵筋「コンクリート」で先づ七階建を造り次いで九階を建てた、併し之は地面がなく埋築は困難なので廣さを大にする代りに止むなく空中に延ばしたに過ぎないが、之は洋行して「ニューヨーク」や「シカゴ」で高層建築を澤山見て帰つたのでこゝに考が及んだ次第で、建築工事の施工方法も之れに學んで二階づつ仕上げては直ちに坑夫を住居せしめ段々その上を仕上げたのであつた。」との興味深い記載があります。
 なお、この時の洋行かどうかは分かりませんが、<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十二』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、一七〇〇頁>には「社誌第二十巻 大正二年」として「日下部義太郎英獨米出張」のことが記載されており、その中には「出張日数ハ往復滞在ヲ通ジ約七ケ月トス」の記載があります。
内容《長崎港外端島名勝 コンクリー建ノ景》  <所有絵葉書>
 上段の「16・17号棟が9階建て18号棟が6階建て」から時間が経過し、19・20号棟も6階まで完成した時の光景ですが、低い方の18〜20号棟の6階屋上には手摺りがあるのに、高い方の16・17号棟の9階屋上には手摺りがない点が気になります。
 ちなみに、写真右端中段の部分はお寺の場所と思いますが、閉山時、お寺の海側にあった昭和館の姿はまだ見えてなく、高台のお寺の部分から、コンクリートを流す管のようなものが見えていますので、もしかしたら、昭和館着工時ぐらいの光景かと思いますが如何でしょうか。
内容
 昔の絵葉書からの拡大で画像が荒れておりますが、島の西側から見た日給の光景です。16・17号棟が9階建てで、18〜20号棟が6階建ての頃の姿のようです。
写真<2013年撮影>
<長崎市の特別の許可を得て撮影>
 48号棟、51号棟、21号棟及び公民館があり撮影する場所が限られ、左上の絵葉書(長崎港外端島名勝 コンクリー建ノ景)のような光景での撮影は無理で、このような光景での撮影となってしまいます。
内容《長崎港外端島名勝 コンクリー建ノ景》の屋上部分の拡大
 《長崎港外端島名勝 コンクリー建ノ景》から屋上部分を抜き出して拡大しました。赤い○を付している箇所ですが、屋上から何か出ているようです。
内容《三菱高島礦業所 端島坑九階建社宅》  <所有絵葉書>
 前出の《長崎港外端島名勝 コンクリー建ノ景》と同じく、16・17号棟が9階建てで、18〜20号棟が6階建ての頃の姿です。


内容 《左絵葉書の部分拡大》
 17号棟の屋上が写っている部分を絵葉書から抜き出し拡大しました。
 説明のため、赤色の矢印を加えておりますが、矢印の先には、閉山の頃にはなかった構造物が見えております。
 ちなみに、閉山の頃には、この辺りには、細長い煙突が一本建っているだけでした。
内容 《左絵葉書の部分拡大》
 更に拡大しました。閉山の頃にはなかった構造物の正体は、かなりの本数の柱のようです。何のための柱でしょうか。
 9階建てとする際に必要だった柱?、12階建てとする際に必要となる柱?、それとも18号棟以降を増築する際に必要だった柱?、想像は尽きません。
内容 《左絵葉書の部分拡大》
 絵葉書の左下部分の拡大です。
 写真下段には、日給2階と島の通路を結ぶ階段が閉山の頃(閉山の頃には16号棟と19号棟の付近の二ヶ所)とは違う場所に写っています。ちなみに、その昔は、17号棟と18号棟の間の一箇所のみにあったことが<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、初版1984、346頁>の図版3-138や図版3-139に描かれています。
 また、通称「めがね」も見えており、その形は既に閉山の頃の形をしていると思いますが、護岸の上にはレールが敷かれているように思います。
 もしかしたら、近くの護岸を工事している時の光景でしょうか。
内容《長崎港外端島コンクリート九階建ノ偉観》  <所有絵葉書>
 18・19号棟も9階建てになりました。形としては日給の最終形ですが、未だ、16号棟部分には便所が設けられていません。
 また、閉山時に51号棟があった場所に、51号棟が建つ前にあった砿業所武道場兼体育館も写っていません。
内容 上段絵葉書《長崎港外端島コンクリート九階建ノ偉観》の部分拡大です。
 屋上にある電柱は、17号棟と18号棟の境目に位置し、電柱の左側が16・17号棟部分で、右側が「後日増築の18〜20号棟部分」となります。電柱の左右を7〜9階部分で比較しますと、電柱右側の手摺りの方が高くなっており、また、天井を支える「はり」の形にも違いがあるようです。
 しかし、6階部分では、そのような違いはないようなので、18・19号棟の7〜9階部分を増築する際には設計の見直しが行われたのでしょうか?。ちなみに、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、初版1984、346頁>の図版3-139では、手摺の高さは同じですが「はり」の形に相違があることが分かります。
 また、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、787頁>には、「昭和3年ごろ18号・19号アパート嵩上げ工事の際に,30号アパートと共に柱「はり」の断面を大きくし,鉄筋を挿入して補強すると同時に,外壁の塩風が当たる面には防水モルタル塗布した。」との記載がありますが、絵葉書では18・19号棟の嵩上げ部分において「はり」の形に変化があることが分かります。(私には柱の変化については確認できませんでした。)
内容 左絵葉書の2・3階付近の拡大です。写真下段の中央には、その昔、日給の中央付近にあった日給2階と島の通路を結ぶ階段が写っています。
 18・19号棟の7階以上の増築場所についても、若干、記載させていただきます。
 下記の変革図において、図版8-28では旧15号棟と短い18・19号棟が存在しますが、図版8-29には旧15号棟は存在せず、長い18・19号棟があります。変革図の下に、「日給の6階と7階の住居戸数比較」がありますが、19号棟では格段に戸数が増え、建物が長くなってます。19号棟の7階以上の延伸部分は旧15号棟跡に建築されたのではないかと思います。

《 変 革 図 》

写真
<図版8-28〜8-29は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
旧13〜15号棟関係を説明するため、上記図版オリジナル版に赤文字及び赤矢印を追加し改変してます。

《日給の6階と7階の住居戸数比較》

6 階
内容
7 階
内容

<左図版2枚(図版3-144・3-145は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>

<比較検証・図版上から>
号棟名6階7階増減
(7F−6F)
20号棟屋上
19号棟
18号棟
17号棟
16号棟
 上記のとおり17〜19号棟では6階と7階の戸数が違い、19号棟では3戸も増えています。3戸増える場所は旧15号棟があった場所ではないでしょうか?。なお、16・20号棟の各住居は他の日給社宅と比べて狭かったようです。

 上記図版は、「日給社宅柱補強RC巻たて前のプラン平面図」であり、軍艦島実測調査資料集の「日給社宅−主要建物の実測詳細図面集」にある「日給社宅平面図」(追補版242・243頁)ではありませんのでご注意願います。ちなみに、「日給社宅平面図」での6階と7階の戸数比較は下表のとおりです。
号棟名6階7階増減
(7F−6F)
20号棟屋上
19号棟
18号棟
17号棟
16号棟
 「日給社宅平面図」では、20号棟屋上(7階)にも住居が描かれていますが、これは20号棟屋上(7階)に後年設けられた木造建物のものであるため、表には戸数の記載は行わず「屋上」と記載しました。

 「日給社宅柱補強RC巻たて前のプラン平面図」と「日給社宅平面図」との違いについてですが、前者図面の方が古いように思います。例えば17号棟6階では、戸数が前者図面では6戸、後者図面では7戸となっていますが、その違いは、前者図面では最も山側の通路となっている箇所が、後者図面では通路ではなく住居と変更になっている点です。ここにも日給の変遷があるようです。

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