横 島 炭 坑

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。
横島の歴史
明治25年        長崎の尾上栄文と峯眞興が五尺層を発見
明治27年6月5日   三菱が鉱区を譲受ける
明治30年2月      出炭開始
明治34年6月      西部で断層突破出来ず起業工事を中止。東部も断層に阻まれる。
明治35年1月      廃坑
現在、横島は地図には名前があるが、船から見てほんの一握りの岩礁にすぎない姿となっており、端島と異なり、昔時を偲ぶすべもない。
  <以上、『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)P.202・203・204より>
横島は、長崎県西彼杵郡香焼町安保の南西約700メートルの海上に、横長く浮かぶ岩礁である。明治17年(1884)「西彼杵郡村誌」によると東西330メートル、南北61メール人家なしの記載あり。
明治30年        山林を削り、埋立開始、翌年から出炭開始
明治33年1月      私立横島小学校創立
明治35年(1902)   閉山
 炭鉱の閉山は島の姿の終焉でもあった。島を支えていた石垣は取りはずされて、古老の話によれば、端島方面に運ばれたとのことである。このために埋め立てた土砂は残らず流失して岩礁と化す。また、閉山から約60年の星霜が流れた昭和40年(1965)ごろ、山頂の西側の岩礁が徐々に海中に没し、山頂も傾斜して少し沈下、山頂の東側も一部が水没。横島周辺の海底には、往事の石垣の根方の一部が残る。かつて、炭鉱の島として咲きに栄えた横島の運命は、あまりにも太くて短く、朝な夕なにその岩礁を目のあたりにするときに、今昔の感に堪えず、その末路が哀れでならない。
  <以上、香焼町郷土誌編纂委員会編集「香焼町郷土誌」香焼町(平成3年)p.347・348・349より。>
・明治27年に三菱社有となった翌年に立坑入気坑(80m)、排気坑(67m)を掘った。
  <以上、三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集「三菱鉱業社史」三菱鉱業セメント株式会社(昭和51年)>

写真《横島炭鉱(明治33年)
<写真は、香焼町郷土誌編纂委員会編集「香焼町郷土誌」香焼町(平成3年)p.35より許諾を得て転載>

 p.35と殆ど同じと思われる写真が、p.350にタイトル:「明治33年撮影による横島」で載っていますが,その説明として、p.348には「中央の煙突は動力源の汽缶場等、その手前が貯木場と見られ団平船が接岸しているようである。左側のやぐらが南立鉱、右の山頂に四角に見えるのが北排気鉱、その右側の数棟が住宅、病院、小学校と思われる。」との記載があります。

 下の3枚の図面は、長崎歴史文化博物館に所蔵されている《第二課事務簿 海面埋立ノ部》に納められている埋立関係の図面ですが、図面を見比べると、埋立箇所の位置関係が分かりやすいのではないかと思います。ちなみに、3枚全ての埋立が実行されたかについては確認できておりません。
 なお、上段の《横島炭鉱(明治33年)》の横島の姿ですが、図面にある島の下側(南側)の光景ではないかと思っておりますが、何カ所か図面にある埋立箇所の特徴が現れているような気がしてなりません。

写真《第二課事務簿 海面埋立ノ部》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 左の写真は、「明治三十一年自七月至九月 第二課事務簿 海面埋立之部」に収納されている、「埋立地所有認定願」(明治三十一年六月一日付け、明治貳拾七年四月九日埋立許可)の別紙図面で、タイトルには「香焼字横嶋」や「海面埋立実測圖」の文字が含まれています。
 埋立図面をよく理解できておりませんが、島の右側にある複数の直線の内、一番外側の線が埋立地と海との境かと思いますが如何でしょうか?。もしそうであれば、曲線で描かれている部分が埋立前の横島本来の姿ではないかと思います。そして、島の中央部の少し色が濃い部分が山の部分になるのでしょうか?。
 また、長崎歴史文化博物館には、今回の図面の場所とは別の場所を対象とした海面埋立願の下記図面も所蔵されております。その場所は、下図にあるように、今回の埋立地所有認定願の場所の左側と右側の海面上の場所となっております。

 ちなみに、三菱社誌には下記の埋立情報が記載されています。
・明治30年、長崎県西彼杵郡深堀村大字香焼字横島水面貳千八百四十六坪ノ埋立ヲ許可セラル
  <三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌第四巻』(財)東京大学出版会(昭和56年復刊)>
・明治32年、高島炭坑、曩ニ竣成ノ横島水面埋築地ノ所有権保存登記ヲ終了ス
  <三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌第六巻』(財)東京大学出版会(昭和55年復刊)>
写真《第二課事務簿 海面埋立之部》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 左の写真は、「明治三十年自一月至二月 第二課事務簿 海面埋立之部 共二」に収納されている、「海面埋立願」(明治廿九年十月十九日付け)の別紙図面で、タイトルは「長崎縣肥前國西彼杵郡深堀村大字香焼字横島海面埋立願求積圖」となっています。分かりづらいですが、上段図面埋立部分の左側には、今回埋立申請する場所が描かれており、図面に書かれている埋立面積数は、上記『三菱社誌第四巻』の明治30年の面積数と一致するようです。
写真《第二課事務簿 海面埋立之部》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 左の写真は、「明治三十年自九月至十二月(拾遺) 第二課事務簿 海面埋立ノ部」に収納されている、「海面埋立願」(明治三十年五月廿六日付け)の別紙図面です。
 島の右側の海面上に、線により、今回埋立申請する場所が描かれています。なお、書類に書かれて埋立面積数ですが、貳千九百八拾七坪となっているようです。

写真《西彼杵郡香焼村全図》
<出展:「未来への遺産(香焼町閉町記念誌 発行/長崎県香焼町役場)」より>

 p8に掲載されている西彼杵郡香焼村全図です。字図の集成図との説明書きがありますが、図の左下にあるのは横島の姿と思います。
 香焼村は、明治31年に深堀村から分村しており、また、島の色分けが山林になっているようですので、もしかしたら、横島炭坑閉山後の姿でしょうか。それにしても、かなりの広さがあったようです。

写真<出展:「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より>
 画像を回転させています。昭和49年度撮影ですが、横島と思われる地点には広い島はなく、瀬の姿しかありません。

写真<2012年撮影>
 写真中段の左端の海上にポツンと横島の姿が伺えます。また、右側には香焼や伊王島の姿が見えています。

写真<2012年撮影>
 伊王島の高島側に浮かぶ横島の光景です。
写真<2012年撮影>
 瀬が三つ見えます。管理人の勉強不足で申し訳ありませんが、正直言って、どれが横島を構成したのか確かなことは分かっておりません。恐らくは右端の瀬は横島の一部と思っているのですが・・・。
写真<2012年撮影>
 上段写真の真ん中と右側の瀬の拡大写真です。こちらの写真は、上段写真とは別の日の撮影で風があり、上段写真と違って、瀬の間にも少し白波がたっていますので、その箇所はかなり浅い部分かと思います。また、右端の瀬の右側の海面の色も周りの海面と少し色が違っているですので、同様に浅い箇所と思います。この両者の場所ですが、往事は陸地だったのでないかと思っています。
写真《閉山後の横島炭鉱》
<写真は香焼町郷土誌編纂委員会編集「香焼町郷土誌」香焼町(平成3年)より許諾を得て転載。>
 平成15年3月31日発行「高島町の歴史年表」(高島町教育委員会)には、明治36年頃の出来事として、横島坑の社宅を仲山地区に職員社宅として5棟移築し、閉山まで使用した旨の記載があります。
写真<2012年撮影>
 上段写真の写真の撮影は恐らく船の上からで、こちらの写真は長崎半島からの撮影ですが、とほぼ同じアングルかと思います。
写真<2012年撮影>
 上写真の右端に位置する瀬の拡大図です。
写真<2012年撮影>
 今までの2012年撮影の写真は長崎半島からの撮影でしたが、今回の写真は香焼からの撮影です。
 2枚上の写真の撮影場所から、真裏までとは行きませんが、かなり反対側の場所まで回り撮影した光景です。遠くには野母崎が見えております。ちなみに、今までの説明で言えば、三つの瀬の内、真ん中と右側の瀬の写真です。

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