宜竹は景徐周麟 投稿者:静風 投稿日:2003/08/28(Thu) 19:51 No.1000

投稿1000件目の記念すべき日に何と言う執念か、やっと思いが天に届いた。

やはり相国寺の景徐周麟が「宜竹」でした。
蘆庵と親交のあった一休禅師と宜竹の師、横川景三とはきわめて近く、
宜竹は宗祇や村田殊光と同じ年代の人である。
一休禅師も一節切を吹いていたので当時すでに誰かが一節切を作っていたはずである。
宜竹の名は能管の世界にもしばしば出てくる。
能管も作ったのではなかろうか?
この場合なら、「宜竹が笛の祖」であったとしてもなんの不思議もない。

ただここで気になるのは、同時代に生きた宗佐との関係である。
宗佐が笛の祖であるはずなのに、宜竹が笛の祖となっているところから
あるいは宗佐は宜竹の直弟子だったのか? 同一人物か?
なかなか歴史探索に終わりはない。

景徐周麟(1440〜1518)、夢窓派。
別に宜竹・半隱・對松(すべて軒号)・江左(地名)と号す。近江の人。大館持房の子息。永享十二(1440)生。
瑞溪周鳳・月翁周鏡・横川景三・希世靈彦に師事し、外学を習った。景徳寺・等持寺・相國寺に住す
永正十五年(1518)三月二日示寂。
詩文は主として瑞溪周鳳と横川景三より習得する。
その語録詩文集を『翰林葫蘆集』という。
日記を『等持寺日件』『日渉記』といい、『鹿苑日録』の一部を成している。

「島原城の一節切」は樺巻きを施していない簡素な一節切でありながら、天正10年(1582)、
松平太郎左衛門重定が持舟城占領のとき、戦利品として欲した当時の逸品となれば
おそらく当時の著名な武将、たとえば武田信玄公、あるいは連歌師などが

吹いていたものではなかったろうか?
駿府持舟城の城宝であったことは間違いない。

後に島原城に来る前、牧覚右衛門が福知山時代、のちの島原城主、松平忠房公に頼まれ、
京都を托鉢したのが1649年〜51年の3年間、
とすれば島原城の一節切は1655年に法橋に徐せられた宜竹(以降、今宜竹とする)の作ではない。
しかし法橋、宜竹の印があり、宜竹であることには間違いない。

さかのぼれば1400年代に相国寺に宜竹禅師がいたことは
はっきりしており、
「萬寶全書」には「宜竹は笛の祖なり」とかかれている。
大森宗勲より後世の宜竹を笛の祖と呼ぶはずはない。
とすれば、もっと以前に「笛の祖」と呼ばれる先代宜竹がいたはずである。

笛の祖は一般には福建からきた蘆庵か宗佐であるといわれてきた。
相国寺の宜竹禅師と宗佐との関連も興味深い。
推測の域であるが、宜竹という笛師は能管も一節切も古い昔から茶人の宗佐と同じように
何代も何代も世襲で代替わりしてきたのではなかろうか?

森田流奥義録によれば宜竹は「中古の上作の部」の人となっており
およそ1600年前後の時代の人を指しており、今宜竹とは別人。
また一噌庸二師の「松虫」という笛も明和年間(1764〜72)に登録された笛とされ

今宜竹とは別人である。
宜竹が何代もいたことを証明していそうだ。