島原城の宜竹作一節切

 
10月21日、島原市商工観光課の森さんから島原城の写真が届けられた。
島原城の尺八は初代深溝城主、松平大炊助忠定の孫にあたる松平太郎左衛門重定
(牧覚右衛門の父君)が天正10年(1582年)、持舟城を攻略した際、
戦利品として手に入れたものである。

尺八研究家の牧原伸一郎氏の記述によると敵将の朝比奈信置(秀盛)を久能山まで送り届け、

そのお礼に譲り受けたという文献もあるらしい。
駿府持舟城は宗祇の定輪寺や宗長の柴屋軒にきわめて近い場所にある。

これまで我々が知る法橋「宜竹」(1655年に叙せらる)よりも古い時代の作であり、 
宜竹の先代の作であろうと考えられ、興味は尽きない。 
なお島原城の尺八には樺巻きが施されておらず、きわめて素朴で美しい。
今日まで割れなかったのが不思議といわざるにはいられない。
なお、牧覚右衛門は1649年から3年間、この尺八を吹いて京都を托鉢しているが、
このとき我々の知る宜竹はまだ法橋に叙せられてはいなかった。
江戸時代の百科事典「萬宝全書」で「宜竹は笛の元祖とへり」と書かれた人である。
当時の宗長や小森宗勲をさしおいて「笛の祖」といわれる人は私の知るところ
相国寺の宜竹禅師、景徐周麟以外には考えられない。
景徐周麟の師、横川景三は一休禅師や一路と親交が深かった。
宗祇もその一人である。

なお、家康、家忠との関係は下図の通り
世良田親氏―松平泰親―信光―親忠―長親―信忠―清康―広忠―家康
              忠景―忠定―好景―伊忠―家忠―忠利―忠房
                    定清―重定―重是=牧覚右衛門

 



全体写真、樺巻きはない、素朴そのものである。樋がはっきりと見られる。


全体写真、裏孔の下に法橋の銘がある。


法橋作であることは確実、その下に宜らしき銘がある。


歌口の銘、宜らしき銘がある。


管尻の銘、宜らしき銘がある。