虚無僧研究会小菅会長島原城を訪問


3月21日、虚無僧研究会の小菅会長がわざわざ東京より島原城を訪れた。
現在の尺八界で知られている「法橋」は数少なく、わずかに「宜竹」と「是斎」の2名しか分かっていない。
そこで1582年の「法橋銘の一節切」とはいかなるものかとわざわざ島原城を訪れた次第である。

小菅会長は白手袋、虫めがねまで持参し意欲満々、じっくりと竹を観察していた。
焼印の打ち方からして、やはり「宜竹」の焼印に間違いなさそうだ、といわれる。

ただ私は2点の疑問を感じた。
一つは宜竹の一節切は「真ん丸の中に法橋」の焼印である。この一節切りは丸がはっきりしない。
しかも法橋の銘の下になにやら「宜?」らしき号の1文字の焼印が重ねられている。
すなわち法橋宜?と焼印が打たれているのだ。
もう一つトラ口の小印が宜竹の特徴とか、よく見ると確かになにやら小さな焼印がある。
「やっぱりありますわ、宜竹に間違いないでしょう」との判断であったが、帰ってよく
他の管との焼印の位置を比べると、トラ口の左下が多いのにこの管は右横に押している。
しかも管尻にも右横に押している。当時このような製管上の流行があったのではなかろうか。
本当にこの字が「宜」であるかどうかを、もう一度きちんとプロの写真家に依頼して確かめる必要がありそうだ。
たしかに「宜」の字を崩したような字体であるような気はするが、確証がつかめない。

宜竹が法橋に任じられたのは1655年、1582年からは70年も後の話である。
1582年の由緒書きは作り物だろうか? しかし、私は由緒書を信じたい。
由緒書きを正とし、焼印が宜竹であるとすれば、考えられることは1582年に重定が手に入れた
持舟城の一節切はさらに先代の宜竹の作としか考えようがない。
後の宜竹の作風は殆ど樺巻きを施してあり、もっと華麗である。
竹材も樋がはっきりと確認され、竹のかなり上方の節部を使っている。
「本当に素朴だ。こんな一節切はこれまで見たことがない。」 小菅会長の感想である。


 

虫眼鏡を持参して熱心に銘を観察する小菅会長、左は松尾卓次先生   ご隠居さんの説明を熱心に聴く小菅会長