長福山玖崎寺(のちの松寿軒)の研究

 

われわれ長崎の尺八愛好家にとって是非知っておかねばならない

ことは長崎がその昔尺八の2大流派、琴古流にとっても都山流に

とっても、とても重要な場所であった、という事実でである。

特に琴古流を志すものにとっては、初代琴古、黒澤幸八(1710~

1771)が長崎の玖崎寺という普化寺において一計士という虚無僧

より古伝3虚霊(虚鈴、虚空、霧海?)と名曲呼び返し鹿の遠音、

それに三谷菅垣、波間鈴慕、佐山菅垣の7曲を伝授され、270年

後の今日においても琴古流本曲36曲中の根幹曲として伝承されて

いる、という事実を知っておきたい。

なお都山流の始祖、中尾都山も長崎出身の尺八家、近藤宗悦

(1821〜1867)の創設した宗悦流を小森隆吉に学び、

のちに独立して今日の都山流を築いている。

近藤宗悦という人は40歳のとき長崎を出て、京都明暗寺で尾崎

真龍に真法流を学び、その豪放な吹き振りで人々を魅了し、また

外曲に力を入れ、宗悦流を創設、関西の尺八界に君臨した人である。

後に高弟が独立、それぞれ都山流、上田流、竹保流となった。

これらのことから当時の長崎の尺八文化がいかに高いものであった

が窺い知れる。

以下に清田章童著「長崎と尺八」を参孝に松壽軒について記述し、

のちに各方面の史実を加え検証することとしたい。

松壽軒については今から160年前の文化文政年間に書かれた

「市史地誌編仏寺部下巻の松壽軒記」に紹介している「長崎名勝図

絵」稿本、ならびに同仏寺部上卷、天長山太平寺の一史料のうち

「太平寺由来書」によってわずかに知ることができる。

それによれば

1640 初代門的   寛永17年、武州青梅鈴法寺に関係のあ

            った端翁門的という虚無僧が虚無僧が長崎

            奉行の許可を得て八百屋町に一寺を建立

1679 2代及察   延宝7年春、官の要請により古町第5橋の

            側(今の古町橋北)表口3間、奥行6間

            3尺の地に移る。

            延宝7年2月、鈴法寺と本末の約を結び、

            長福山玖崎寺とす。

1720 3代秀水   享保5年2月、年始八朔の礼を行う資格を

            賦与され、基盤確立

1720 4代青山 

1721 5代角豊   享保6年、長崎大水害で被害を受ける。

1728        初代琴古、玖崎寺を訪れ一計に7曲を伝授

            さる。

1740        元文5年冬、更に失火火災で全焼、復興の

            道が閉ざされる。

1742 6代白仙   寛保2年の初め、q台寺第10代笑厳(又は

            禅僧慮山の建てた浄泉院との寺号譲渡の交渉

            を重ねる。

1744 7代探心   延享1年10月、本寺に窮状を訴え、寺号を

            譲渡し、庵号をもって実態を維持し、従前通り

            虚無僧接待の任に当たりたい旨、願い出る。

1750        寛宝3年9月、鈴法寺より浄泉院への寺号譲渡

            の許可が降りる。

            のちに天長山太平寺と改称する。

1766        明和3年3月、玖崎寺跡の止宿所は鈴法寺の

            許可を得て、松壽軒と称するようになる。

            探心は宝歴4年3月(1754)まではいたが

            その後の看主は不明

以上のように松壽軒は表面上虚無僧の止宿所として当地、又は巡行中の

虚無僧を監督し、普化宗廃止とともに廃絶し、民家となったものである

が、その間の消息はよくわからない。

ただ「虚無僧一件」という松壽軒の記録の写本によって松壽軒付与の

「本則」「会判」「往来」の各写し、そして天明寛政年間(1780~1800

の看坊に帰待、門弟に孔雲、志達というものがいたことが判明している。

最近長崎市在住の津田繁二氏の好意により同氏が松壽軒付与の「往来」を

所蔵していたこと、また同氏の紹介で野母崎町海蔵寺の旧本堂の屋根裏

から指月という虚無僧の愛管、本則、往来2通、付録ならびに慶長19年

の掟書の写しなどが発見された。

その写しにより文化天保年間(1803~1847)に一籟随柳なる看主がいた

ことが新たに解った。

                  

以降は諸氏による検証である。  

3代目琴古の「琴古手帳」では正寿軒との記述あり、

創建は寛永17年(1640)武州青梅の鈴法寺に関係した端翁門的と

いう虚無僧が長崎奉行馬場三郎左衛門の許可を得て、八百屋町に一寺を

建立、のちに玖崎寺とした。

正徳乙末年(1715)彗通が編した「長崎図志」(純心大学1991・

3刊)には次ぎのような記述がある。

久喜寺 或作玖崎寺 末知就是

按ずるに寛永18年、僧門的建つ、寺裡読経の声を聞かず。

衆徒皆有髪にして僧貌たり。倶に洞簫の如きものを持つ、呼んで尺八と

言う。且夕之を吹き以って勧行を為す。世に伝う此れ普化禅師の流、

謂所虚無僧寺也

延宝7年(1678)二代及察のとき、古町に移転。

当時の歴史背景としては寛永8年に時宗開立、寛永12年寺社奉行が

新設、寛永14年島原の乱、寛永18年キリシタン禁止令、長崎に出島

開設など。長崎くんち祭りが始まったのも寛永11年頃です。

博多の一朝軒が創設されたのは正徳3年(1723)のことですから、

玖崎寺は80年も前からあったことになります。

黒沢琴古が玖崎寺を訪れたのは享保13年(1728)、古伝3曲のほか

佐山菅垣、波間鈴慕、三谷菅垣、そして鹿の遠音の7曲が一計士より伝授

されたと聞いております。

琴古手帳によれば享保13年(1728)とある。

寛宝3年(1750)普化宗玖崎寺は度重なる水害、火災に見舞われ、

寺号の維持ができなくなったため、皓臺寺10代住職笑巌同眉の法孫

盧山浙江の計らいで、寺号を曹洞宗皓臺寺末、淨泉院(のち太平寺と

改称)に譲渡することになった。

高橋空山の「普化宗史」では元文5年(1740)の火災で壊れ、復旧の

メドがたたなくなり、明和3年(1766)以降、松寿軒とだけ名乗る

ことになった、とある。

「q台寺誌」に玖崎寺が太平寺に変わった経緯が詳述されている。

太平寺はもと玖崎寺といっていた。笑厳同眉が隠栖の場所として浦上に

建てた浄泉院の4代慮山浙江は玖崎寺の寺号を譲り受けることを計画し、

鈴法寺や長崎奉行に許可を申請寛延3年(1750年)に認められた。

これにより玖崎寺はq台寺末となり、開山に笑厳同眉を請し、2世、

3世は浄泉院の世代をそのまま受け継ぎ、2世浮翁鉄舟、3世覈雲本玄

とし、慮山は4世となった。しかしq台寺より寺号に異議が唱えられ、

山寺号を天長山太平寺とした。

太平寺は宝歴7年(1757)古町より新橋町に移転、明治10年q台寺住持

大慈忍海の斡旋により小曽根乾堂より寺地寄進を受け、現在の波の平町に

移った。

玖崎寺跡(古町橋のたもと)は虚無僧止宿所として残すことで鈴法寺の

許可を得て、松寿軒と呼ぶようになりました。

田邊茂啓が編述した「長崎実録大伐」(宝歴10年序(1760)−

S40長崎文献社刊)には玖崎寺の名称はなく天長山太平寺(P165)

と記し、次ぎのようにある。

禅宗曹洞派 当地q台寺末 寛延3年(1750)建

境内18坪余、 新橋町中紺屋町之内

当時根元は武州鈴法寺の末寺にて当地の八百屋町にあり虚無僧の任所を

免せられ長福山玖崎寺の号を授る。その後古町に引移る。

初代、門的、2代及察、3代秀水、4代清山、5代角豊、6代伯山 

早世す

此の故に寛保2年(1742)弟子探心看坊す。

右の通り 虚無僧退転に及ぶべきの処、当地q台寺に取合有之ゆえ、

廬山は鈴法寺に行き向ひ、離末の願相ひ叶ふにて任職と為すべき旨相願う

ところ、同寺より願の通り離末の許これ有り、すなわち廬山其の譲を請ひ

q台寺末と成。猶又山号寺号改のことも差免るに付、天長山太平寺と称す。

其の節q台寺第12代一丈和尚、廬山法系、伝来の先師を相続すへき旨に

つき 同10代笑巌和尚よりの法脈を授かり来る由を記載せり。

笑巌より廬山に如何にして前記法脈が伝えられているかということは次の

ように記している。

先師q台寺10世笑巌 2代笑巌弟子鉄舟、3代鉄舟弟子本玄、4代本玄

弟子廬山。寛延3年より在任39年。

松寿軒は以降、幕末の約120年間、幾多の尺八家を育て、見守って参り

ました。

長崎出身の尺八家、近藤宗悦が関西に出て、京都明暗寺の役僧となり、

宗悦流を創設、関西尺八界に君臨したこと、中尾都山が宗悦流から独立し、

今日の一大流派を形成していることなど、長崎が現代尺八界に果たした

役割は小さくありません。

長崎を訪れ、松寿軒の前に立ち、先人を偲ぶとともに、改めて吹禅の喜びを

味わいたい、そして黄檗宗興福寺、崇福寺、曹洞宗皓臺寺、太平寺などを

托鉢し、最後に平和祈念像の前で平和祈願の献笛をし、今日の平安に感謝

するといった禅行を体験したいと思う方も、これからは増えて行くこと

でしょう。

文政年間(1820〜)に饒田喩義が編した「長崎名勝図絵」

(S6長崎史談会刊)に「松寿軒」と記し解説がある。

それによると同寺では正月18日、大会があり「尺八にて種々の吹曲あり

甚興あり」と記している。

松寿軒と称したのは庭に大きな松があったからである。戦前松寿軒の跡には

「東語」という大きな町家があった。

その「東語」はその後筑後町聖福寺前の「向陽亭」となったらしい。