3人の虚竹禅師
今、宇治の吸江庵跡に虚竹禅師の墓と称する武家風の墓があり、
われわれ尺八家の間では「尺八の祖」として礼拝している。
しかしこの墓は亀の形の台座に据えられており、隠元禅師の入国以降に
日本国内に流行した墓の形式、黄檗式の墓・亀趺(キフ)である。
従って、法燈国師の時代や、一休禅師の時代には無かった墓である。
また吸江庵自体も万福寺が創建されて以降の庵の名称であり、
それまでは吸江庵という名の庵は存在していない。
水上 勉氏は何回も中国にわたり、杭州の寺院を訪ね、歴史家に逢い、
虚竹禅師についての研究をされて「虚竹の笛」を刊行した。
その中で上海在住の張 錫さんの論文、「日本僧と洞簫のこと」と題した論文の中に
詳細な記述がある。
寄竹は杭州禅源寺に日本から渡来していた僧と同寺に住持していた僧、源心慧光の
下働きをしていた「安」という後家女との間に生まれた子だった、と述べている。
この寄竹が後世、虚竹と呼ばれるようになる。
しかも後世、虚竹にまつわる人物には「安」という名が付きまとうことになる。
呂安しかり、蘆安しかり、朗安しかり、道安しかり、琴古に伝授した龍安しかりである。
皆発音は「ロー・アン」に近い。
古くは聖徳太子が洞簫(中国の尺八)を吹いたことはよく知られている。
552年、百済の聖王が仏像や経典を倭国に献上した、という記述はある。
聖王が亡くなったのは史実では554年とされている。
聖徳太子が生まれたのが574年、入倭したのが611年、
太子が吹いた洞簫が聖王から直接いただいたものとは考えにくいが、
一方で百済聖王の第3子、琳聖太子が入倭し、聖徳太子に拝謁したのが611年、という記述もあり、
聖徳太子と聖王との関係についてもさらに考証の余地が残されている。
その後、天台宗最澄の弟子慈覚大師が入唐し、尺八を学び、
「天声阿弥陀経」を尺八で吹いたことは有名である。
当時から読経に楽器の伴奏はつき物であったわけである。
しかしこの頃の尺八伝承者をなぜか尺八史では「尺八の祖」とは記述していない。
もっぱら表5孔、もしくは6孔、3節切りの洞簫つまり雅楽尺八としての位置付けであったのだろう。
なお、上海博物館でも検分したが、当時の歌口は「唐切り」と称して今の尺八の歌口形状に近い。
尺八の祖として最初に登場するのは心地覚心のときである。
心地覚心、のちの法燈国師は1254年2度目の入宋をし、
杭州・禅源寺で修行していた源心の計らいで護国仁王寺に入り、無門慧開禅師に師事し、
そのとき寄竹というものに尺八を学ぶ。(張 錫さんの説)
寄竹は同時代の僧、済公・道済禅師(中国の一休さん)とも交流あり、
栄西(1187入宋)や道元(1223入宋)もほぼ同時代の日本からの渡来僧である。
この説とは別に普化禅師時代の洞簫家、張伯の16代、張参に習ったという言い伝えもある。
総じて、虚竹という名は後世の歴史家の創作である公算が否めない。
次代の尺八の祖は一休禅師の記述に出てくる「宇治の朗庵主」である。
一節切の祖「蘆安」ともしばしば記述されている。
この蘆安はもっぱら福建からの渡来僧であるとの記述が多く、個人的には指示したい。
建長寺の宝殊庵の庵主、祥啓筆になる朗庵図を参照されたい。 こちら
一休禅師や一路居士とも交流のあった高僧であり、見かけのような俗僧ではない。
日本人としても横川景三や山名満幸や山名義理などの南朝武士の名が
朗庵主候補にあがっているが、確定的な根拠はどこにもない。
やはり当時の朗庵主は宋人であったと考えたい。
そして表5孔の簫のほかに、すこしずつ表4孔の1節の一節切が流行していく。
最後が宇治・吸江庵主としての虚竹禅師である。
隠元の弟子で「和漢竹簡往来」を記した明末の亡命僧、曼公こと載笠和尚の記述によれば
南朝の武士で杭州の浄慈寺の洞居で道安の弟子となり、何世かの虚竹に尺八を習った
峯尾絶外という出家僧が万福寺創建のあと吸江庵に住し、虚竹と名乗った、とある。
絶外は小倉の広聚寺から長崎の崇福寺末の善応寺に入り、隠元の跡を追って宇治入りしたとある。
黄檗に携わった日本の武人である。
吸江庵跡の虚竹禅師の墓はこの峯尾絶外・虚竹の墓であろうことは充分に推察できる。
平成16年3月27日に訪れた杭州の浄慈寺には大雄宝殿の前に亀趺があった。
まさに虚竹禅師墓の通り亀の台座であった。ここをクリック
ところで明末の簫といえば中国では南音尺八のことで、
長崎の唐人屋敷ではもっぱら南音尺八の簫が七弦琴と合奏されていた。
(逸然の弟子、元禄の漢画家渡辺秀石(1639〜1707)の唐人管弦図にはっきりと描かれている) こちら
それまでの一節切尺八が急速に南音の根付き尺八に変わっていくのである。
なお初代黒澤琴古に吸江庵で古伝曲を伝授したのは「琴古手帳」によれば龍庵と記述されている。