祖父、松林政重のこと

写真は父が出征のとき、祖父が渡した軍刀である。我が家の家宝である。
長男のため「武運長久、敵国降伏」と自ら祈りを込めて彫っている。


我が祖父、松林政重は明治19年3月19日生まれ。
元来、松林家は深堀藩の鍛治であり、
高祖、秋太郎も、祖祖父、米八も船釘、錨などを主として作っていた。
秋太郎が40歳の時、松林家は高島炭坑の採炭事業に失敗し、苦境に陥っていた。
祖々父、米八が13歳の頃、深堀から船釘を担って戸町を通り、
鍛冶屋町まで売りに来ていたと聞く。
秋太郎45歳、米八が19歳の頃、戸町に移住、
旧、松下医院あたりに住み、こつこつと鍛冶業を営んでいた。

若い頃の米八は器量がよく、当時戸町の富豪であった松田家の長女、チカに
見染められ、松林家の運命は大きく変貌する。
明治17年3月2日、米八が24歳、チカが18歳のとき、二人は結婚、秋太郎は51歳
その後松田家の後援もあり、鍛冶業も順調に推移、
長崎市下郷450番地に住居と工場を新築することができた。
祖父、政重が4歳、米八31歳、秋太郎59歳の頃のことである。
秋太郎はその頃より事実上隠居、米八、チカが一家を支えることになる  

祖父政重は戸町小を総代で卒業、浪の平の尋常小学校時代も、
もちろん首席を競うほど優秀であった。
明治34年10月5日、秋太郎没69歳、
米八が42歳、政重が15歳のときである。

政重は15歳のときこれからは自分が家を背負って立たねばならぬと、
はっきりと意識し、長男としての心構えを強くしたという。
そしてこのとき、占い師に手相をみてもらったところ
“稲佐山の水をとり、日本刀を作る人になる”といわれたそうである。
政重はそのときの気持ちをその後25年間、いつまでも忘れずに持ちつづけたため
苦難に打ち勝ち、大願を成就できた、とのちに語っている。
高小卒業以降は米八に替わって一家を支え、鍛冶業に専念した。
その後、政重の時代に三菱の下請けにも手を広げ、徐々に業績を伸ばし、
父が中学に行く頃には既に鍛冶業としては成功の部類にあった。
現在の実家もその頃2階を増築して今日に至っている。
前出の「松林家の歴史」で親族そろった写真は多分この時のものであろう。
松田の家にはその頃弟の千治も元気でおり、政重の鍛冶を手伝っていた。
五郎も働いていた。
仕事はとても多忙で槌の音も力強く、活気に満ちていた。
鍛冶の傍ら、政重は弟の米重を東京の電気学校(現在の東京工大の前身)に
進学させ、妹の松枝、エイなどは当時のハイカラ学校であった活水女学院へ
進学させるなど家庭の世話を独りでよくこなした。
米八はその後体を悪くして、昭和2年7月17日、68歳で遂に没した。
政重が41歳、父が15歳のときだった。  

父が長崎高商入学の頃から、政重はそれまで積もりに積もっていた
刀剣製作に対する思いが一挙に噴き上がり、独学で刀剣の研究に没頭していった。
(中略)

昭和6年、父が高商2年の時、初めて政重は作品を帝展に出品、
選外佳作となり、一躍注目を浴び始めた。
昭和10年 6月 3日には 第1回新作日本刀大供進会に出品、優等賞を受賞
昭和10年10月 2日には 第1回日本刀展覧会にて金賞特選受賞
昭和11年 6月10日   第5回大日本刀剣大会にて優等賞受賞
昭和11年12月 8日   第2回日本刀展覧会にて、遂に内閣総理大臣賞を受賞した。
また父が帰郷した昭和19年には父と政重とが共作で鍛造した軍刀が、
陸軍軍刀展で栄誉ある陸軍大臣賞を受賞した。  
祖父は父の卓越した能力に魅了し、本心ではどんなにか家業を継いで欲しいと
思ったに違いない。
父を旅順工大や明治工専に進学させようと試みたのも自分が勉強できなかった
高度の工業技術(特に冶金に関する知識)を体得させ、家業に反映させたかったからだ、
と後に娘達に述懐している。  

政重は昭和11年、橘神社に平家の名刀「古烏丸写し」を献納している。
また同じ頃、郷里の深堀藩、元城主、鍋島茂昭が墓参のため帰郷した際、
志波原三郎村長の要請により、海軍中将就任記念の刀を献納した。
直刀で龍の彫り物がしてあった、と深堀住の小川恒久氏が語ってくれた。
沢子叔母の話では、政重は東京の出品作品の受賞刀を宮様にも献上したという。
諏訪神社にも献納している。
(中略)  

現在の松林家の墓は明治の終わり頃、米八によって作られ、
終戦後の昭和27年頃、秋太郎の50回忌に遺骨を深堀から移し変えた。
先に述べたように深堀の龍殊庵に松林家の墓と大渡家の墓が隣り合わせであったが
墓参りは沙汰気味で、深堀住の山口匡江氏の妻ミワさんが墓守をしてくれていた。
政重はそれがいつも気がかりで、山口氏に済まぬ済まぬといつも詫びていたという。
遺骨を移した翌年、昭和28年9月20日、政重は家族に見守られ、
静かに息を引き取った。死因は肺浸潤
68歳、父が42歳、私が10歳のときだった。

祖父、祖祖父の没年を遂に私は超えた。