島原城の一節切尺八

                        古典尺八竹風会  主宰  松林静風

 

平成14年の秋、わが竹友、林新弐氏より数枚のコピーが届けられた。

氏の父君が島原の歴史研究家であった林銑吉氏、

昭和4年に発行した「杜城の花」という本の中から「尺八笛と松平好房公」と題する話で、

昭和44年に牧覚右衛門の末孫で有家在住であった牧静枝女史から寄贈され、

島原城に展示されている牧覚右衛門の一節切尺八に関する記事であった。

 

早速島原城を訪れ、笛をみる。

かなり古そうであるが何の変哲もない、そんなに上等にも見えない素朴な笛に見えた。

しかし、念のため、牧家系図など資料類を丹念にメモし、自宅に戻り、知人に連絡を取ったり、

パソコンを駆使したりして、調べてみた。

 

牧家系譜を丹念にみると覚右衛門の父君(祖父?)は松平太郎左衛門重定、

先祖はなんと初代深溝城主忠定ではないか?

その父君忠景が家康の5代前の親忠と兄弟に当たることも分かった。

最近分かったことだが、どうも牧覚右衛門と城主忠房は腹違いの兄弟であり、

覚右衛門の父(祖父?)重定の母が三河の牧村出身であったことから

晩年、姓を松平から牧へと改姓したことが分かった。

家康の命で、家忠とともに重定は身内として駿河の丸子城、持船城などの占拠に

活躍した人だったわけである。

 

家康と忠房そして覚右衛門の関係を下図に示す。

世良田親氏―松平泰親―信光―親忠―長親―信忠―清康―広忠―家康

                    忠景―忠定―好景―     伊忠―家忠―忠利―忠房

                             定清―         重定―   重是(覚右衛門)

 

島原城の尺八は初代深溝城主、松平大炊助忠定の孫にあたる松平太郎左衛門重定
(牧覚右衛門の父君、祖父?)が天正10年(1582年)、持舟城を攻略した際、
手に入れたものである、との記録が残されている。

その後、名古屋在住の尺八研究家、牧原伸一郎師によると

「敵将の朝比奈信置(秀盛)を久能山まで送り届け、そのお礼にと譲り受けた」というような
記述を読んだ記憶があるが、出典の記憶がない、との記述がある。

 

さらに調査したく、主任研究員の松尾卓次先生を紹介していただこうと、

森岳商店街のご隠居さん、松坂秀應翁にお願いし、

平成14年の11月下旬、一緒に島原城を訪ねたのが今回の発見の口火となった。

 

私が尺八研究家で或ることを理由に本来なら撮影することも手に触れることもできない展示物を

「特別に」拝見させていただき、じっくりと手にしてそれを観察し、スケッチさせていただいた。

本当に許されないことだが、その一節切を吹かせていただいた。

まさに「霊音」だった。何百年も吹かれなかった笛が城内に響き渡った。

まるで牧覚右衛門が好房公を取り戻したときの母親の心を揺さぶった「霊音」に思え

吹きながら涙が止まらなかった。「この笛は普通の笛ではない!!」と直感した。

そしてそのときに感じた私の意見をメモし、東京の虚無僧研究会小菅会長に調査協力を依頼した。

 

たまたま虚無僧研究会の小菅会長は平成14年6月、私が長崎松壽軒碑を建立したとき

ことのほか喜んでいただきその記念式典に来ていただくなど、

懇意にさせていただいていた関係で、快く調査に協力していただいた。

その後、神田可遊先生ほか多くの一節切研究の第一人者を紹介いただき、

貴重な文献資料を提示していただいた。

私もその間、虚無僧研究会や小田原、駿河の研究家を訪ねたし、

また平成15年3月には小菅会長がわざわざ遠路島原まで足を伸ばしていただいた。

そして約1年間の葛藤の末に、遂にこの笛が「法橋宜竹」の作で或る事が確認された次第である。

 

島原城の尺八には樺巻きが施されておらず、きわめて素朴で美しい。
今日まで割れなかったのが不思議といわざるにはいられない。

宜竹といえば、江戸時代の百科事典「萬宝全書」で「笛の元祖といへり」と記され、

また芭蕉が延宝6年、江戸広小路で唄った句に「まず知るや 宜竹が竹に 花の雪」とあるほどの

天下一の笛造りの名人である。

一節切尺八とともに横笛も作ったようで、将軍家の御物にも「音羽」などその名が見られる。

 

国会図書館所蔵の宮地一閑著「尺八筆記」に宜竹の作風が詳述されている。

「裏のせみに法橋の丸印あり、虎口に宜らしき小印あり」「一代に30管を作る」とある。

今回プロ写真家の専門的撮影技術を駆使して、やっとその印影の撮影に成功、

東京の専門家の確認照査が得られたわけである。

 

さて島原城の笛が「法橋宜竹」の作で或ることは判明したが、少し困ったことが起こった。

我々が「萬宝全書」で知る今宜竹は実は承応4年(1655)に法橋に徐せられている。

島原城の笛の極め書に寄れば、島原城の笛は天正10年(1582)に駿河の持船城を占拠したときに

取得したものと記されており、約80年も昔のことである。

また牧覚右衛門がこの笛を吹いて京都を托鉢したのが慶安2年から3ヵ年(1649〜51)

このときまだ「萬宝全書」の今宜竹は法橋に徐せられていなかった。

なのに島原城の一節切には「法橋」の印が押されている。

「樺巻きも施されていない」「おかしい」ということになった。

もしやこの笛は「極め書き」を正とすれば「萬宝全書」に記された法橋・今宜竹より

さらに数代前の先代法橋宜竹の作なのか、「極め書き」の笛ではないのかという疑問が生じた。

 

尺八研究家の神田可遊氏の調査によれば、明和年間(1764〜72)に諸大名所有の銘管を

幕府に登録させた「森田流奥義録」によれば、萬宝全書の宜竹を「今法橋」、

それ以前にも「中古上作の部の宜竹」がおり、名を野田次郎右衛門宜近と称し、

江戸に住し、京都にも一時住したとある。

「中古上作の部」とは1600年前後というので50年程度古い時代の宜竹である。

またほかに「古法橋」という作者もいるとのこと。もっと以前にも法橋はいたようだ。

 

となれば、島原城の笛の作者法橋宜竹は、我々が知る「今法橋」より80年も前の宜竹であり、

尺八界の一大発見である。しかも「樺巻きのない法橋宜竹の素朴な竹」となればほかに例を見ない。

最近東京文化財研究所の高桑いずみ先生の調査によると、熱田神宮所蔵の一節切は

武田信玄が1568年頃、京都より入手した、と記載され樺巻きは施されていない。

高桑先生によると、江戸時代以前の古い一節切には製作当時は樺巻きが施してなく、

樺巻きは後年、割れの修理で施された可能性が高い、と推測されている。
 
「萬宝全書」という最高権威の書物で「宜竹は笛の元祖」と書かれていることには驚いた。

蘆安や宗佐というなら理解できるが、すでに法橋に叙せられていた原是斎や

その師、一節切中興の祖と称される小森宗勲をさしおいて「笛の祖」といわれる宜竹は

今宜竹であるはずがない。もっと先代から「宜竹」という最高名人がいたはずだ。

一休禅師の時代までさかのぼるのではなかろうか?
一休の時代に「宜竹」を名乗った禅師が一人いる。相国寺の景徐周麟、

景徐周麟の師、横川景三は一休禅師や朗庵・庵主・一路と親交が深かった。

景徐周麟も「翰林葫蘆集」を著し、一休禅師や世阿弥の讃を盛んにしている。

一節切をこよなく愛した「雪舟」の絵にも讃を入れている。

 

連歌の宗祇もその一人である。宗長はその門下、

一休禅師、横川景三、一路、宗長、宗佐と近い関係のあった景徐周麟、

景徐周麟すなわち宜竹禅師本人が一節切を作っていたことが確認されれば解決する話であるが、

なかなかそのような文献にはまだ行き当たらない。

或いは当時しきりに連歌会、茶会が開催されていた相国寺の「鹿苑院」や「慈照院・宜竹軒」で

一節切や能管を製作した禅僧が「宜竹」の銘を許された、という可能性は高い。

景徐周麟にはもう一つの号がある。「江左」、

「宗佐老人」との関わりもさらに調査の必要がある。

宜竹禅師自身が笛を作り、宜竹銘を名乗ったか、

宗佐老人の笛を作った宜竹軒の僧が宜竹銘を名乗ったとすれば、

「笛の元祖」として誰も異論を唱えるものはいないだろう。
 

天正10年2月に持船城は占拠されるが、この年の6月には明智光秀の本能寺の変により信長が没す。

そしてその8年後には秀吉によって小田原城が落とされ、北条は滅びる。

そして当時一節切のメッカであった北条領「武蔵の忍城」に松平家忠が入場する。

城を追われた北条の残党によって青梅に普化宗「鈴法寺」が創建され、後に虚無僧総本山となる。

そしてその鈴法寺の末寺として長崎にも寛永17年(1640)、松壽軒の前身「玖崎寺」が

八百屋町に創建されることになるわけである。

 

さて話がすこし反れるが、尺八製管家としての体験から「樺巻きのない尺八」について考えてみよう。

尺八に限らず、本当に音を追求する人は「竹に巻物を施すこと」はあまり歓迎しない。

音色に自然さが失われるからである。できれば巻きたくない。しかし割れる。

献上品や宝物のようにどうしても割れては困るものは仕方がない。しかし自分がいつも愛用して

手入れのできる愛用の管は、巻きものが施していない笛を吹きたいものである。

もともと一節切尺八は一休禅師の頃より吹かれ、茶事などに使われてきた経緯もあり、竹の上部

すなわち樋のある部分を用いて作られてきた。しかしその音量は小さく、音域も狭かった。

ところが北条玄庵によって画期的に改良され、1550年代以降、竹の根に近い部分を

使用するようになりその鳴りも飛躍的によくなった。人々は「玄庵切」と称して、もてはやし、

尺八好きの家康もとても欲しがったというエピソードがあるくらいである。

しかし竹の根に近い部分は節間が狭く、どうしても節が2つ以上できてしまう。

それを樺巻きを施すことで、これまでの一節切の体を保った、とも考えられる。

現に玄庵以降、尺八は三節切りとなり、江戸中期からは隠元禅師が長崎に持ち込んだ

南音洞簫(根付きの5孔多節洞簫)の影響で、現在の根付き尺八に変わっていった。

玄庵の一節切はそのような時代を変える画期的な作風であった。

樋もなく、肉厚の厚い「樺巻きのある」笛は玄庵切り以降の作り方である。

島原城の尺八のように「樋があり」「樺巻きのない」銘管は本物の銘管であり、

樺巻きがないからこそ霊音が響く一節切であった、と私は思いたい。

島原城の一節切は献上の目的でなく、相当の天下一名人自身が自分自身の愛管として

大事に愛吹していたものと憶測する次第である。

だからこそ他の管にはない霊音があのとき城内に響きわたったのであろう。

 

そして一休禅師と親交のあった宗祇や宗長などの連歌師を経て、一節切をこよなく愛した

武田信玄が海の要衝とした駿河の「持船城」に持ち込まれたのではなかろうか。

いかにも連歌師の笛を連想させる素朴な笛である。

いずれにせよ今回島原城の一節切尺八がわが国の尺八界をゆさぶる一大発見となったことは感慨深い。

 

さて長崎松壽軒の前身普化宗「玖崎寺」は1640年に創建されたが、この経緯も島原城の一節切と

無関係ではない。

当時の島原藩の大老は板倉家と松平家である。

実は島原の乱の平定を家光から命ぜられ、総大将として現地に赴き、原城で悲劇の戦死を遂げた

板倉内膳正重昌は家康の近侍として信望深く、一節切の名手であった。

このことが尾張徳川家の古事を綴った「昔咄」の中にある。

 

寛永の頃、公家様(将軍家光)へ御三家普大名衆より小姓踊りを
しくみてあげられしことあり。
これを御国では殿様踊りと言い表しぬ。
この唄は三味線なく、小鼓太鼓ばかりの囃子なり。(中略)
江戸お屋敷にて毎日7ッ頃より稽古ありし。
板倉内膳正(重昌)殿御心安く出入られ、尺八上手なりしが
右稽古の時を見計らって参られ、尺八吹きて合わされしが
いと面白かりし。
まもなく原城にて討ち死にあり。  とある。

 

その兄は京都所司代板倉重宗、淵月了源の嘆願を受け、京都明暗寺の創建に力を貸した人である。

また父はやはり京都所司代板倉勝重、虚無僧の特権を認めた「慶長の掟書」の作成に中心的な

役割を果たした。

もう一つ板倉勝重と家康については次のエピソードもある。

 

深溝松平藩の菩提寺、島原本光寺の案内板にこう書いてある。

「慶長18年(1613)、家康に本光寺御目見仕候」
深溝城主松平忠利と家康のいざこざを京都所司代板倉勝重と吉田本光寺8世
仙麟長膳大和尚が調停した話が紹介されている。
板倉勝重は自らの本家筋である島原藩大老板倉家のことを思い、
調停に力をいれたようだ。
松平忠利といえば城主忠房の父君で6代深溝藩主、その後継の藩主が板倉重昌である。
のちに松平信綱や板倉重宗らの尽力により島原の乱は鎮圧される。

寛永15年2月(1638)

もう一つは鈴法寺との関係である。先に述べたように鈴法寺は北条家の滅亡により

忍城にいた北条の残党が城をでて、葦草に小寺を建てたのが起こりである。(1590以降)

北条の武士の中には尺八をよくするものが多かった。

その徳川側の初代忍城城主になったのが松平家忠である。

そして3代城主が老中で智恵伊豆とうたわれた松平信綱、

板倉重昌が戦死した島原の乱を救援し、現地で指揮した。

幕府の重鎮にあってキリシタン弾圧の必要性を身をもって体験したひとりである。

島原の乱平定の直後、鈴法寺の末寺として長崎に玖崎寺の建立が許される。

 

そしてまもなく島原城に「鬼攝津守」と人々に恐れられた譜代大名の高力忠房が

家康のお膝元浜松城から着任し、キリシタン弾圧を強める。

しかし、2代目隆長の暴政が糾弾され、改易される。

そしてついには明智光秀没後の福知山城を治めていた松平忠房を招聘、九州一円

長崎を監視するようになる。

島原城主の血筋、大老の血筋ともに虚無僧とおおいにかかわりが深く、

また長崎玖崎寺(のちの松壽軒)も島原松平藩とはおおいに関わりがあったことを知らされる。