長崎と明清楽ついて

 

胡弓と二胡の違い

 

現在、国内で一般に胡弓と言われていますが

胡弓という呼び方は日本独自の呼び方で、中国では二胡(アルフー)と呼んでいます。

また二胡を含めた擦弦楽器を総称して「胡琴」(フーチン)と呼び、二胡のほかに

中胡、高胡、京胡、板胡やモンゴルの馬頭琴などもこの仲間です。

 

二胡の歴史

 

二胡の原型といわれる楽器は唐の時代(618〜907)に既に作られていましたが、

弦が絹糸などでできており、音量も小さいものでした。

ここ70〜80年間の間に中国民族楽団演奏用に改良が重ねられ、音量も大きくなり

独奏楽器として用いられるようになりました。

 

長崎と胡琴

 

日本に本格的に胡琴が演奏されるようになったのは、長崎に明楽が流入してからのことです。

日本は1639年鎖国となり、1641年にはオランダ領事館が平戸から長崎に移され、

オランダと中国だけが長崎での貿易を許されたわけです。

中国はその頃、明の時代から清の時代に変わろうとしていました。

明の貴族は清の圧政を恐れ、特に南部の漢民族で長崎へ逃げてくる人が増えました。

 

1629年頃魏之炎という豪商が福建省から長崎に来て、唐人屋敷の建設に貢献し、

そこで明楽を伝えました。

そして将軍家光からその出身地「矩鹿」にちなみ、「矩鹿」の日本名を許されます。

そしてその4代、矩鹿民部が安永の頃(1772)宮中に赴き、演奏し、

一大旋風を起こしました。

当時は宗教はもちろん、絵画も、書も、音楽も全て「黄檗文化」が「五山文化」として

もてはやされたのです。

 

清の時代(1644年〜)になると、明楽は徐々に衰え、江戸時代末期になると清楽が

中心になりますが、長崎でも林 得建という人によって1830年頃清楽が伝えられ、

後に小曽根乾堂によって小曽根流として継承され、長崎の明清楽として今日まで

大事に伝承されてきたわけです。

幕末の頃は明清楽の「九連環」が長崎から京都、江戸へと伝わり、「法界節」や

「かんかんのう」「さのさ」などに変曲され、日本国中で大流行しました。

坂本竜馬の妻の「おりょう」が乾堂に学び月琴を弾いた話は有名です。

 

近年も「長崎ぶらぶら節」で有名な丸山あたりでこの胡琴が盛んに弾かれていました。

当時弾かれた胡弓が丸山の「花月」に今も展示されています。

明清楽と日本の尺八について

 

1571年の長崎開港以来、1620年には最初の黄檗寺「興福寺」が建立され、1600年代前半に唐寺3ケ寺が完成した。

1629年には福建省の富豪「魏之炎」が長崎へ渡来、帰化、将軍家光の許しを得て、鉅鹿姓を名乗った。寛文6年(1666年)

1689年には鉅鹿氏らの寄進によって唐人屋敷も完成、明楽が黄檗寺を中心に盛んに演奏されるようになる。

遅れて唐僧心越も入国、7弦琴(古琴)を広める。

鉅鹿氏4代目の太左衛門の兄、富五郎が上洛、民部と改姓、宮中で明楽の指導にあたる。

別図にあるように、その頃既に長崎では琴と蛇皮線、胡弓と簫(尺八)の合奏が行われていた。

当時の日本の尺八といえば合奏用ではなく、「一節切」といって1尺8分の短い笛が独奏用に吹かれることが主流であった。

しかし明楽で用いられる長簫の影響もあり、徐々に一節切尺八は廃れていく。

尺八琴古流の祖、黒澤琴古が19歳のとき長崎にきて、玖崎寺(後の松壽軒)で一計士に古伝本曲7曲を伝授された話は有名である。

琴古はのちに江戸に戻り、琴古流を創設し、尺八と琴、三味線の合奏を盛んにする。

また、1830年天保年間には、福建省より林得建氏が来朝、音斉と号して清楽を広める。

その弟子平井連山と妹、長原梅園をつれて大阪に上り、関西に連山派を創設、多いに清楽を広める。

この頃から長崎の小曽根家が明清楽の中心となる。当時「興福寺」で演奏された楽器は

19種類、月琴、胡琴、琵琶、柏板、笛、太鼓、銅羅、シチリキ、木魚など、

当然長簫(尺八)もその中の重要な位置を占めていたようだ。

この頃、長崎でチャルメラ宗悦と呼ばれていた近藤宗悦が京都に上り、関西の尺八界を牛耳る。

そして後にこの宗悦流から尺八界の最大流派、中尾都山の都山流が生まれるわけである。

いずれにせよ日本の尺八界の中心人物は長崎に大いに関係がある。

明清楽には2つの傾向があり、1つは揚子江下流を中心とする北部明楽(清楽)、

もう1つは福建省南部の南部明楽(宮廷楽)であり、南部明楽にはメリ込み、

掏り込みが多用されており(琴古系)、北部明楽や清楽には深いメリが少ない(宗悦系、都山系)のが特徴である。

関東の琴古流は魏氏系、南部明楽の奏風(メリ込み、掏り込み)であり、関西の都山流は林氏系、

清楽の奏風(中メリで棒吹き)であることが、いかにも明清楽の奏法と一致して、面白い。

明楽と亀型の墓 

長崎の明楽は中国からの渡来人で崇福寺の創建に功績のあった魏之炎によって広められた。

曾孫の魏君山が民部と改姓、上京して明楽の師範となり、酒井雅楽頭(文化担当の家老職)の扶持を受けた。

安永元年(1772)には河原御殿泉水で船楽を奏している。

酒井侯の死去とともにまた長崎へ戻り、筒井景周ら弟子たちに秘曲を伝えた。

安永3年に没するが「すべて本朝にて明楽流行し候う儀は民部より弘まり申候」と由緒書にあり、

日本での流行は安永以後と言われる。

楽器には唐琵琶、月琴、明笛、胡琴、片鼓、柏板、木魚、シチリキ、それに尺八(簫)など19種類であった。

初代の魏之炎が本国から楽器を持参して魏家に伝えた。それを図示した本が「魏氏楽器図」として残されている。

書家の小曽根乾堂らによって明清楽は広められ、幕末から現在まで続いている継承の

系譜は、小曽根乾堂−小曽根キクー中村キラ・渡瀬ひろ子ー山野誠之になっている。

現在長崎県の重要文化財に指定されている。

魏之炎の墓は、西山町の高台にあり、中国風の墓形式である。

また大音寺の開山、伝誉上人の墓は亀の甲羅の上に碑があり、福済寺の慈母観音様も

亀の甲羅の上に立っている。深堀の五官の墓もそうだ。

この亀の墓は隠元とともに明から亡命してきた朱舜水によって1650年以降に、国内に広められた中国式の墓の形である。

 

朱舜水は後に(1665年)水戸黄門に招聘され、儒学の師として王制復古に貢献した人物である。

その娘、高は鄭成功と結婚し、台湾王となり、清に最後まで抵抗した。

宇治の吸江庵にある尺八の祖、虚竹禅師の墓も亀型であり、注目すべきことである。

吸江庵という名の正式な登場は宇治の萬福寺の建立以降、というのだから、また興味深い。

虚竹禅師の墓といわれるが、1600年以降の唐人の朗庵主(水上 勉が言うように何代か目の虚竹)のものであるかも知れない。

 

興福寺から発信された文化、東皐心越と七絃琴

 

東皐心越(1639〜1695)は中国杭州、西湖のほとりの永福寺より

1676年に清朝の圧政を逃れて日本をめざし、薩摩入りした。

そして長崎に入り、興福寺に住し、七弦琴を広める。もともとは関羽将軍の末裔である。

 

昔の唐僧はあわせて文人であり、書、画、楽、篆刻などに長じていた。

当時は明朝から清朝に変わった直後であり、のちにスパイ容疑で捕らわれ、獄中の人となる。

しかし、水戸黄門に救われ、水戸入りする。

 

水戸入り後も篆刻や琴で日本の新たな文化をリードし、篆刻界では独立(どくりゅう)と並び「日本篆刻の祖」と称され、

明楽界では「日本琴学中興の祖」と呼ばれた。

とくに琴は殆ど平安朝以降途絶えていたものを、心越が再興している。

 

ちなみに琴は琴地を動かさないもの、琴地を動かすものを筝という。「左弦右書」といわれ、琴は君子の必須の教養となったようだ。

琴は音量が極めて小さく幽玄であるため、他の楽器との合奏を嫌い、あっても簫(細身の尺八)としか合奏していなかったようだ。

中国の琴の祖、虞山が使っていた虞山派「松弦館琴譜」を心越が携えて来たことから、いわゆる琴の本流を学べる、ということで

当時の日本国内で大変流行した。

 

心越は晩年、光圀公の計らいで高崎に黄檗宗の少林山達磨寺を建立し、住持するが、達磨寺の張子の達磨が名物となり、今日まで続いている。