奉仕の理想探求語録    第19号

        長崎東ロータリークラブ 雑誌委員会        

 

青春の星           (友1999−3号  吉舎  後藤和人)

私は母校の日彰館中学校(旧制)を卒業以来、青壮年期のほとんどを都市で暮らし

50歳の半ばを過ぎて家職の神職を継ぐために、広島県北の故郷、吉舎町に帰った。

40年振りの帰郷である。顔を見知る人が町中に30人いるかどうか。

心細い限りのところを、吉舎クラブが入会を誘ってくださった。有り難かった。

それぞれに年輪を刻んだお顔に若い頃の懐かしい面影が浮かんでくる。

その方々が口々に「よく帰られた」と言ってくださる。

本当に救われる思いであった。

例えばクラブ創立に尽くされ、第八分区代理も務められた内科医の田中恭生氏。

私が中学2年生のとき、5年生の田中先輩は神のような存在であった。

当時は戦後のこととて、学校ではことあるごとに軍事教練の閲兵が行われる。

不動の首席である先輩は、そのたびに、大隊長として全校生の指揮を執られた。

ゲートル姿もりりしく五個中隊の先頭に立つ先輩が、「分列に前へ!」の号令と

同時に、稜々たる進軍ラッパが鳴り渡り、ザックザックと歩調を取った健児500

の進軍が始まるのだ。

ソノ先頭に、一人長剣をきらめかして、痩身の田中大隊長が行く。

暗い戦雲の時代の一齣であるが、それは我ら健児達の青春の日々であり、先輩は

その「青春の星」だったのだ。

ところが、入会まもなく私はその先輩から「酒とたばこ」と題した卓話を伺うことと

なった。驚いたことに、当時、田中先輩の生家の部屋が級友のたまり場になっており、

ことあれば一升瓶が持ち込まれ、逃げ口まで用意して、深夜の酒宴になったという。

朝学校でサーベルをかざしたその手に、夜は見つかれば即停学処分の茶碗酒。

私は一瞬耳を疑ったほどであった。

現代の学校社会の荒廃は一つにはペーパーテストの秀才を育て続けてあきないところに

あると思われるが、当時先輩のその行為は、単なる秀才と言われることへの拒否の姿勢

だったといえよう。現代のようなそんな軟弱な秀才ではなかった。

会員となり、田中先輩のみならず、それぞれ一城の主である方から、世間知らずの帰り

新参の私が学ぶことは実に多い。有り難い会に加えていただいたと、心から感謝し、

相応の奉仕をしたいと願っている。