奉仕の理想探求語録     第35号

            長崎東ロータリークラブ 雑誌委員会

職業奉仕はいかにして生まれたか

(ロータリアン誌1980−5月号 チェスリーR・ペリー)

 

ポール・ハリスを除いてロータリーの草創期の発展に最も貢献した人物といえば、

チェスリー・R・ペリー以外にいません。チェスはシカゴRCの初期の会長を務めたほか、

ロータリークラブ国際連合会(国際ロータリーの前身)の初代事務総長に就任、以降32年間

事務総長としての務めを果たしました。この記事は1955年ロータリー創立50周年に際し、

米国イリノイ州ラサルで行われたロータリー実業関係会議でのチェスの講演記録を抜粋したもので

ロータリーがいかに職業人を奉仕に向かわせたかを述べています。

 

ロータリーが誕生した1905年には、商工会議所、同業組合、共同募金、赤十字社そして

ボーイスカウトも産別労組も存在していません。ラジオやテレビは言うに及ばず、飛行機も

なく、自動車は発明されたばかりで、所得税も女性の投票権もなく、ここに参加の皆さんは

ほとんどは生まれていなかったでしょう。

「我利と悪意に満ちた時代」そうした時代のシカゴに、友情とビジネスを結びつけ、それに

よって事業も栄え、友情も深めることができるのではないかというアイディアを持った男が

現れました。

このアイディアは当時のアメリカ人の一般的な考え方とは違ったものでした。

1905年当時の上流社会ではビジネスのことを口にするのも何か憚られるような風潮で

あったようです。

「ビジネスはビジネス」「他人にやられる前にやれ」「飼い主が注意せよ」

「同業者は敵だ、ひとりでも少なければ自分が儲かる」というような考え方が支配的な時代

だったのです。我勝ちに、情け無用の無慈悲さで展開されていた大企業の発展競争ガ後半に

入っていた頃で、米国内には我利と悪意が満ちていました。

1893年シカゴでコロンビア博覧会が開かれていた頃、法律を学んでいる学生が

バーモント州からアイオワ州へ向かう途中、1週間シカゴで過ごしました。

「ざわめく西部の都市のよこしまで落ち着きのなさがなぜか奇妙な魅力となって、

私にとりついた。」と彼は後で述べています。

それから数年後、彼ポール・ハリスはその魅力に惹かれ、たくましく進歩的で、矛盾に

満ちたこのシカゴに、金儲けのためでなく、生涯を過ごすために戻ってきたのでした。

「芽生えてきた新しい理念」ここで弁護士事務所の看板を掲げたポール・ハリスは、仕事に

精を出す傍ら、友人を造ることに努力しました。彼が最も欲したのは誠実な人々との

あたたかい触れあいだったのです。

やがて彼は新しいクラブを作りました。友情を深めること、そして商売を発展させること、

の2つを目的としたクラブを作ったのです。

これが現在、8500(1955年当時、現在は30,149クラブ)を数える

ロータリーの最初のクラブです。

会員を各事業から1人に限ることによって商売敵を含まないサークルを作ったのです。

(中略)

友好的で非競合的な雰囲気のなかで、彼らはこのクラブの性格にだんだんと満足すべき

ものを感じるようになっていきました。

親睦は職業を異にする人たちと知り合う機会となり、そして他の人々を思いやり、

助け合おうという新しい理念が芽生えてきたのでした。

会員達は若く、報奨をを求めることなく、他人のために何か役に立つことをするという

アイディアに魅力を感じて言ったのです。(中略)

商取引において「ロータリアン」という言葉は“純金”と同義語でなければならない、

ということになったのです。

これこそ私たちが今、職業奉仕とよんでいるものの萌芽であり、この芽は最初の

ロータリークラブで萌え出たものです。

それはまた、友情と商売を混ぜ合わせたことから生まれる必然的な結果でも合ったわけです。

(中略)

実業人、専門職業人の集まりである40万人のロータリアンには恐るべき可能性が

秘められています。

その可能性は、団体活動ではなく、会員一人ひとりの絶えざる、そして人々を納得させる

行動の中にあるのです。

皆さん、私たちの職業奉仕、クラブ奉仕、社会奉仕そして国際奉仕を積極的に実践しよう

ではありませんか。

そして「最もよく奉仕するもの、最も多く報いられる」という使命を持っていることを、

一人一人が認識するまで、ロータリーの目標をしっかりと銘記していようではありませんか。

人間関係に根ざす、すべての問題の解決は、他人とのあらゆる触れあいにおいて

「奉仕の理想」を受け入れ、実践する各個人にかかっているのです。

これがロータリー活動の崇高な目的です。 目的はこのように簡明なのです。