奉仕の理想探求語録     第53号

          長崎東ロータリークラブ  松林政寛選        

 

ロータリーと歌唱    (友 1971−4  川崎  笹部 誠)

 

2年目に発生したロータリーの危機は、第5ロータリアン、ハリー・ラックルズが

例会で歌を指揮することによって避けられた。

彼なかりせば今のロータリーの繁栄、ついに見得なかったかもしれない。

ほかの多くのクラブのように、今はどこにあるのか、わからなくなっているかも知れない

 

歌唱を取り入れたハリー・ラックルズ

 歌唱をロータリーに取り入れたのは、いわゆるロータリーの使徒、

ポール・ハリス、シルベスター・シール、ガスターバス・ローア、ハイラム・ショ―レー

ハリー・ラックルズ、ビル・ジェンセンの6人中に列せるラックルズでポール・ハリスの

紹介によってシカゴロータリークラブに入会し、5番目の会員であるところから

第5ロータリアンとして知られていた人である。

他の人達と同様、彼も田舎者であった。彼はミシガンの半島の一つの農場に生まれ、

そこで育てられた。

彼が17歳のとき、一家はシカゴに移転し、ハリーはノースウェスタン大学に入学したが

学資を稼ぐために、ある印刷会社の販売係りとして、パートタイマーとして働いた。

 彼は非常によく働いたので、まもなくその会社の株の3分の1を手にいれるようになり、

ついに他の2人の共同経営者の権利も手に入れるようになったのである。(中略)

 

 クラブの危機は2年目に発生した。

つまらない意見の相違がだんだん大きくなって、手が付けられないようになったのである。

一つの派はある少数の会員だけがクラブを運営しようとしているといい、他の者は

あまりにも多くの日和見たちが、自分たちのために勝利を狙っているというのだった。

冷たさが増し、悪口が聞こえるようになった。

やがて出席率は低下した。

そこでハリー・ラックルズと当時のクラブ幹事であったウィル・R・ネッフ医師が

このことについて協議したのである。

「これがもう一ヶ月も続けば、クラブは解散してしまうだろう」とネッフは悲しそうに

語ったのである。

「私は君が毎週立ちあがって楽しく歌うことにしたらどうか、と思う」

そしてラックルズはその通りにしたのである。

 

歌うクラブは良いクラブ

 例会での歌唱は音楽上の技巧を競うものではない。美声を誇るためでもない。

この点について国際ロータリーで刊行している“ロータリークラブのための歌曲集”

の序文は次ぎのように方針を示している。

“歌うロータリークラブは良いクラブである”とは至言であり、さらに親切なクラブであり

友好的な、そして協力的なクラブである。

知り合いということから友好は生まれ、友好から奉仕への欲が生じ、奉仕から長く続く

組織的な団体が成立するのである。

歌唱はこのことに重大な役を演じるのである。

ロータリークラブでの歌唱は、独唱家のためのものでもなく、音楽的才能のある人だけの

ものでもない。

重要なことは歌うということが毎週毎週のプログラムに含まれて皆が参加することである。

そして各クラブにある協力の気持ちを強め、良い友好の親密な空気を作ることである。