先祖の住居
我が先祖の松林氏は深堀の武家屋敷の最奥、樋口家、深堀家の隣りに
住んでいたことが判明しました。
藩の重鎮で、石炭事業によって財をなしていたものと思われます。
4代松林源蔵以前に3代源蔵や2代源蔵の身内も深堀に在住している事実から、
恐らく源蔵に近い姻戚の方だったのでしょう。
祖々父の米八が鍛冶の最中によくこぼしていた言葉がそれを物語っています。
「あのとき、水さえ出ていなければ、」と
寺井沢子叔母の話によると、
政重が健在のころ、深堀の志波原三郎村長より連絡があり、
松林家の先祖が事業失敗により手放した土地家屋が、さらに転売されることに
なっているので買い戻さないか、との打診があったそうです。
政重は結局それに応じなかったが、志波原村長に沢子叔母が同行し
現地を検分したところ、武家屋敷の一番奥に位置し、土塀で囲まれており、
近くの道路には溝があった、との話でした。(上が送付されてきた配置図)
松林家が高島炭坑で水没により事業に失敗し、
私財を処分せざるをえなかった事実が思い起こされてくる。
松林氏が武家屋敷に屋敷を有していたのは1833年から1869年と判明した。
となれば、秋太郎が誕生した年から36歳まで、米八が10歳まで、
この場所に住んでいた事になる。
秋太郎の時代に住し、採炭事業の失敗により、譲渡したのでしょう。
ちなみに4代松林源蔵は慶応4年(1868年)にグラバーとの共同開発にかかっている。
我が先祖の事業失敗を引き継ぐ形で、4代源蔵が洋式採炭に関わったことになる。
その後、松林邸は樋口氏にわたり、樋口氏の姪がしばらく住んでいたらしい。
戦時中の昭和18年頃、その姪が亡くなり、政重に2000円程度で
買い戻さないかとの打診があったが、松永という方が買取り、
のちに内田製パン屋、と所有者が変わってきた模様です。
武家屋敷、樋口邸前の碑
樋口邸から旧深堀邸跡、こまめに区切りされ、住宅地になっている。
現在の内田ベーカリー工場