唐通事について


<はじめに>


中国船の長崎来航は寛永8年(1631)には80艘にもなり、その数は年々増加の傾向にあり、
元禄元年(1688)には117艘とピークに達した。
このころ出入りの中国人の数は約1万人で、長崎貿易の中心もオランダ船から中国船に移っていた。
慶長9年(1604)、長崎在住の唐人馮六が唐通事に任ぜられたが、これが唐通事の起源であった。
 唐通事は地役人で、大通事、小通事の本通事と、稽古通事があった。
大通事、小通事の定数はそれぞれ5人、稽古通事には定数はなく12人〜30人であった。
 この大・小通事、稽古通事を基幹として、唐通事頭取・唐通事諸立会・御用通事・風説定役・
唐通事目付・小通事並・小通事末席・稽古通事見習などの諸役があった。
 俸給は慶応元年の分限帳によれば、大通事は5人扶持・受用銀12貫目、小通事は3人扶持・受用銀7貫目、
稽古通事は受用銀3貫目などであった。
 唐通事の業務は、一人の大・小通事に1〜2名の稽古通事が一組となって、
唐人屋敷や新地蔵所において通訳などの諸業務に従事していた。
唐船が入港すると、起帆地・乗組員氏名・積荷品名・数量・価格などを調査して目録を作成し、
貿易業務がはじまると、これに必要な値組帳・勘定帳や配銅帳などじつにさまざま種類の帳簿を作成し、
貿易業務の円滑化に努力した。
 また、鎖国日本における唯一の海外ニュースとして風説定書の作成があったが、
これはオランダ通事によるオランダ風説書とともに重要視された。
さらに、増大する中国貿易を制限するために施行された正徳新令による貿易許可書の発給などにも
たずさわっていた。
 これら唐通事の祖先は中国人であったが、その子孫はのちに「日本人の姿」となり、日本名にあらためた。
平野家、頴川家、彭城家、林家などが代表的な唐通事であった。
 また、これら唐通事のうちから、文化人や学者が多く出ている。
これらのほかに、長崎の一瀬橋、中川橋を架設するなど社会事業につくした人たちもいた。  
唐通事には、住宅唐人(長崎に在住することを許された者)がなり、その子孫が、代々継いでいた。 
唐通事になるには、諸子百家などの書物を勉強し、それを唐音で発音することができなければならなかった。

慶長9年(1604)の馮六(ほうろく、または、ふうろく)(〜1624)が初代
その後、寛永17年(1640)大通事4人、小通事2人
    承応 2年(1653)稽古通事を置く
    万冶 元年(1658)大通事4人、小通事4人に改定
    寛文 6年(1666)大通事4人、小通事5人
    寛文12年(1672)内通事168人を公認、内7人を小頭として稽古通事
               小通事への道を開く。
    元禄 3年(1691)小頭3人を追加、10名にする。

<唐通事の仕事>
唐人関係の通訳業務、来航唐船・唐人の対応、管理、交易業務の関与
交易に関する諸帳簿・報告書の作製、唐人、唐館の秩序維持、唐船風説の聴取、報告 信牌の発給など
年番大通事、小通事各1人が通常業務、宝暦元年(1751)から唐通事会所が設置された。
唐通事会所とは、唐船との貿易関係の業務・通訳を務めた役所である。
唐通事の事務所と言える。
初めのころは、通事の自宅が会所の役目を果たしていたが、1751年(宝暦元)に、設置され、移転した。
正徳新例下では、信牌の発行もしていた。
写真は興善町にある唐通事会所跡 


<唐通事の役料>
宝永5年の役料  唐大通事    33貫182匁 料年番 2貫380匁
         唐小通事    17貫147匁 料年番 1貫580匁
   ちなみに  町年寄     41貫100匁
         オランダ大通事 23貫136匁
         同   小通事 10貫994匁

<唐通事の姓>
中国姓のまま・・・呉、周、何、鄭、慮、陸、陳、蔡、楊、薛、李、江、王 など
中国姓の和訓・・・林、柳屋
中国姓を省略・・・陽
祖籍に因む・・・・頴川(陳、葉)彭城(劉)、河間(愈)、鉅鹿(魏)、東海(徐)
         清川(張)、深見(高)
妻・母の姓・・・・平野(馮)、西村(陳)、中山(馬)、高尾(樊)など
その他・・・・・・官梅(林)、游龍(劉)
日本系・・・・・・平井
朝鮮系・・・・・・三浦(文)
不詳・・・・・・・吉島(鄭)、矢嶋(陳)、井手(曾)、川添、太田など

東海さんの墓普請(はかぶしん))

東海家の墓は東海徳左衛門という人物が、父母のために建てたお墓です。
お墓の場所は、長崎で初めて建てられた教会(トードス・オス・サントス教会)の跡地に建てられた春徳寺(長崎市夫婦川町)の後山です。
東海家は江戸時代に10代続く唐通事の家柄でした。
徳左衛門は、お給与もそれなりにもらっていたでしょうし、家も裕福であったのかもしれませんが、
それにしてもこのお墓は普通の規模ではありませんでした。
それは、目を見張るような大きさで、しかも完成までに約10年(1670〜1680年頃)もかかったというのです。
お墓造りにそんなに長くかかるのは、よほどのこと。
理由は、徳左衛門が細かい指示を出したことで工事がなかなか進まなかったからだと伝えられています。
経費も労力も相当かかったに違いありません。

このことから長崎の人々は、仕事や用事がはかどらない様子を見ると、
「東海さんの墓普請(はかぶしん)」とか「東海さんの墓んごたる」(=東海さんの墓のようだ)などと
言っていたそうです。

 長崎駅から「螢茶屋」行きの路面電車に乗り、新中川町電停で下車。徒歩5分ほどで春徳寺に至ります。
山門前には眼下に広がる長崎の町を見守るかのように大きなクスノキがそびえています。
「東海さんのお墓」は、寺院の後ろを囲むようにしてある墓地の一角にありました。

写真は東海家の墓、東海さんのお墓を訪れる人々