私観・わが国の歴史

 
日中韓や北朝鮮との不幸な関係が続く中で、近隣諸国がもっと仲良くできないものか? と
嘆きつつ、われわれ日本人は自国の建国の歴史をもっと知っておく必要がある、
と思い、自分なりにわが国の歴史について掘り起こし、頭の整理をしています。

とは言いながら、歴史というものは千変万化、学説も多様です。
いろんな学者がいろいろな学説を唱えている。
「ああでもない」「こうでもない」と自論を主張したい方も多いだろう。

だからそのような方はこの記事は読まないで欲しい。
ましてや自論を押し付けようと、余計なコメントはしないで欲しいのです。


以下に記述するのはあくまで私の私観として捕らえた学習の成果であり、
他人に押し付けたり、賛同していただくつもりのものではありません。

ただ私自身は日本国家が大陸からの亡命王朝によって形成されたという
学説にはおおいに賛同する一人である。嘘や冗談だとはおくびにも思っていません。
あくまで多くの学説の中から「私が選んだ一つの結論」に過ぎないのです。


4万8000年前、既に日本列島には縄文人が住んでいた。
         長野県の信濃に野尻湖遺跡があるがその周辺ではナウマン象やオオツノ鹿を狩猟していた。(縄文人)
2万5000年前、南アジア系のモンゴロイドが日本へ上陸
2万年前、    群馬県の岩宿遺跡で南方モンゴロイドの居住確認。
BC2000年前、 北アジア系のモンゴロイドが北九州に上陸(弥生人)
BC393年、燕の時代、日本のことをすでに倭と呼んでいる。
BC200年、「前漢書の燕地」に楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となす、とある。
BC219年、徐福が3000人を連れ、渡来し平原大沢を得、王となる、と「漢書」にある。
      この平原大沢が日本であるという証拠はどこにも無いが徐福伝説は日本全国に分布している。
      徐福は中国「斉」の人、のちに子孫は秦氏を名乗ったと、「義楚六帖」にある。
BC1世紀、 福岡の吉武高木遺跡で日本最古の王の墓、発見さる。
  57年、「三国誌」によれば倭奴国王、大夫を遣わして朝貢
      後漢光武帝に印綬を授かる、とある。
 107年、奴国の王「師弁」が生口160人を献上、とある。
 147年、倭国の乱、国内が乱れる。
 188年、魏の王、「卑弥呼」を倭王となす、
      弟の「難升米」を魏に派遣、金印紫綬を与え、 銅鏡100枚を賜る。
 266年、「晋書」によれば、倭の女王、「壱与」西晋に遣使
      応神天皇のころ、秦一族などの渡来人が新羅よりくる。
      「隋書」によれば今の宇佐のあたりに「秦王国」があった、と記載されている。
      この秦河勝一族はもともとはエホバ信仰者、応神、欽明、太子まで倭国のスポンサー役を務める。
  3世紀、箸墓古墳、孝霊天皇の姫の墓ではないか?
 312年、倭国王が新羅の王に婚姻関係を求め、阿の急利の娘を倭国に戴く。
 369年、神功皇后が加羅7国を平定(半島史)仁徳天皇のころ        (書記によれば神功皇后は応神天皇の母である。、120年の時代差あり)
 405年、漢の高祖の末裔・王仁来倭
 413年、倭王、讃 晋に入貢
 438年、倭王、陳 宋へ入貢
 443年、倭王、済 宋へ入貢
 475年、新羅の皇子・天日槍が来倭、但馬に住す。書記の垂仁の頃とは合わない。
 477年、倭王、武 南斉に入貢
      倭王、武 梁に入貢、  倭の5王とは讃、珍(陳)、済、興、武

さて、卑弥呼は別として、それまでの倭の王は、中国の歴史書によれば、
師弁、卑弥呼、壱与、讃、珍、済、興、武、阿毎と続き、よくわからない。
天皇家とは一体どう関係するのだろうか?  もう少し掘り下げて勉強してみる必要がある。


隋書には日本という国名は出てこないがのちの「旧唐書・日本伝」には
  「日本国は倭国の別種なり、倭国は古の倭奴国なり」と出てくる。
したがって当時の倭王は九州王朝のことで、今の天皇家とは別種の王族であったようだ。

まず、倭国の初代、応神天皇は震旦の国(中国)の生まれである、ともいわれている。
大隈正八幡本縁起によれば「震旦国燐王・陳大王の娘・大比留女が7歳で懐妊して 生まれたホムタワケノミコト」と記されている。大隈の八幡崎に漂流し、日向の隼人と組んで九州を統一した。
陳大王とは秦氏一族のことである。
別に応神=仁徳であるとされたり、卑弥呼とともに、伽耶王の子孫という説もある。

また継体天皇は騎馬民族の蒙古人であったという説もある。
そのことは奈良の五條猫塚古墳から出土した「エフタルの兜」で証明されている。
蒙古が新羅を制し、新羅の王「智証」となり、 のちに倭王となり、継体天皇となったと、伝えられている。新しい日本の建国者である。
528年、 磐井の乱が勃発、磐井筑紫の君が新羅と共謀して大和王朝の任那出兵を妨害したため、 物部鹿鹿火を総大将として磐井軍を鎮圧した。
そんなこともあってか、継体のときに、任那日本府を百済に割譲している。

次の欽明天皇も百済の人、百済の聖明王である、という説がある。

敏達天皇は聖明王の子、「余昌・威徳王」の弟「恵」の嫡流である、とも囁かれている。

次に驚くことに、聖徳太子ですら、倭人ではなかった、という説もある。
聖徳太子も騎馬民族・突厥人の出で名を「達頭」と称し、601年に入倭したというのだ。
太子の母(実は妻の一人)は穴穂部間人皇女、崇神の姉、波斯人つまりペルシア人。
守屋も物部に入籍した突厥人である。

それを裏づけるように、法隆寺は斑鳩、斑鳩の斑は突厥の祖神「斑の狼」、
鳩はゾロアスター教の神の使いなのである。
聖徳太子が百済王からいただいたと伝えられる尺八が法隆寺に残されている。

 607年、「隋書東夷伝」によれば倭国の使者が長安を訪ねる。
      使者によれば「倭王は阿毎、名はタリシヒコ(帯彦足彦)と伝えた。」
      このときの国書が有名 、
     「日のいずるところの王子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや」
この書は大和朝廷では推古の時代、すなわち聖徳太子が摂政をしていた時代である。
聖徳太子が小野妹子に持たせた書簡であるとの説が一般的であったが、少し信じがたい。
やはりこの倭王は九州王朝の王であるか、あるいは蘇我馬子ではないだろうか?
妻が鶏弥、太子は利歌弥多弗利、とあり、あまりにも太子の史実とは符合しない。

天智天皇は白村江の戦いで百済を支援し、唐・新羅連合軍に大敗する。(663年)
この白村江の戦いがその後の日本の歴史を変える。
その後は倭国という国名は消える。

日本という国の初代天皇は天武 (即位 673年)

天武天皇は日本書記や古事記の編纂を命じたいわば日本という国名の最初の天皇である。
それまでは日本という国の名前は歴史上、出てこない。
もちろん天皇という称号も天武が始めて使った。それまでは倭王である。

実はこの天武はもともと中国、前漢の高祖・劉邦の末裔であると囁かれている。
中国から高句麗に渡った中国人の家系である。
天武自身は日本で生まれているが、若い時代を高句麗で過ごし、 軍将・蓋蘇文として成長した。
「続群書類従18巻・坂上系図」によれば、母は漢人・高向王の妻、高句麗王・阿智王の末で
4代・阿多部王の時、倭国に入り高徳天皇の庇護を受け、大和の国高市郡桧前村に住した、とある。
日本書記では高向玄理として登場する。
その人が日本という名の国の最初の天皇なのである。

白村江の戦いで大敗を期した倭王・薩夜麻(サチヤマ)は唐へ軟禁され、8年間日本へ帰れなかった。
日本書記では筑紫守薩夜麻(サチヤマ)が唐より帰国したのが671年とある。
同年、唐から副将、郭務宗が2000の軍を進駐させ、8年間倭国を占領した。
そしてその年天智は亡くなる、翌年が「壬申の乱」、
天武が倭王(サチヤマ)を立てて、王位に着く。
百済親交派を中国・新羅親交派が倒したわけである。
そして天武天皇と藤原鎌足による「大化の改新」、ここで国名が日本に改称される

高句麗(高麗)といえば、今の北朝鮮、満州、肝に銘ずべし。
神社に行けば狛犬がいる。皆、高句麗信仰なのである。

もともと高天原とは故郷・高句麗のことを指しているらしい。
720年、日本書記はこうして新羅・高句麗系王朝を美化して創作された。

何も驚くことも、恥じることもない。
今の天皇家が朝鮮半島の王族の末裔であることは、逃れられない事実である。
私達はそのことを良く知り、中国、韓国、北朝鮮問題に取り組まなければならない。
天皇家の故郷でもあるのだから。

その祖国・同胞でもある中国や韓国から現在の日本は敬愛されているだろうか?
半日感情は止められない。今のままでは、
もっと冷静に自国がしてきた罪を見つめ、そして謙虚にその罪を 謝罪し、尊敬される国風を創生すべきではなかろうか?
半日感情を表現しようとする中国人を見て、彼らを批判する資格は 今の日本人にはない。
彼らは今の日本人が嫌いなのだ。嫌いな理由は山ほどある。

人と人は「好きになる」ことからはじめなければならない。





(参考資料と面白メモ)

歴代天皇の在位機関はこちら



出雲の話、スサノオの話、

馮 弘(ふう・こう)という名でなんと中国北部の国、北燕国の王様だった人物では・・と考えられます。
(奈良県橿原市新沢千塚古墳群126号墳からは、馮弘の伯父馮素弗の墓や馮一族の墓 (房身村2号墓)から
出土した冠帽飾りに酷似した純金形板が出土しています。詳細は後述)
お連れになった王子は馮 王仁といわれる方で、その他大勢の民・新漢人といわれる人々 をつれて上陸して来たのでした。
これが実は出雲大社の始まりとのこと。そんな昔の話ではないらしい。



531年  「百済本記」によれば「倭の天皇、太子、皇子が死んだ」とある。継体天皇のとき、
一族が全部が死んだら、後継者はいないことになるが?
532年、 あとを追うように伽耶の国は新羅に滅ぼされ、滅亡
上宮法王帝説では安閑と宣化朝はない。532年に欽明即位とある。
智証王は法興王に追われ、倭国に来て継体天皇となったので、新羅の法興王とは宿敵だった。
磐井の乱はそんな状況の中で発生した。その子宣化は法興を撃ちに新羅へ発ち、
法興をうち、真興王となる。また弟の欽明は百済王・聖明王となり、倭国王も兼ねる。
そんなわけで兄弟同士が新羅と百済、倭の国王を兼務した時代だった。 欽明は

583年、 百済王・威徳王の参謀・達率日羅という者が倭国に来た。倭では達頭(太子)の部下として働いたらしい。

しかし日羅は暗殺される。

百済の武寧王は日本で生まれたために嶋王といわれた。不思議なことに蘇我馬子は嶋大臣と言われていた。
一説では百済王の摘子孫ではとの話ある。(満木ー蘇我稲目ー馬子ー入鹿ー蝦夷)
「武烈記」によれば日本にいた昆支王の子、末多王が百済の東城王になる、とある。
この頃は百済と倭国は王が入り乱れており、蘇我家も百済王家の親族であったと想定される。

663年の白村江の戦いでは1000隻の戦艦のうち、400隻が沈んだが600隻は損害無し。傍観していたらしい。
その600隻は親中国・新羅派でその中心が天武であったとか、壬申の乱の引き金になったようだ。
668年、 高句麗も滅亡する。
また百済からの亡命上級階層が日本へ流入、天智が高位に優遇した。
もちろん戦勝国の新羅からも多くの指導者が流入した。


推古は蘇我稲目の姪、蘇我稲目が天皇崇峻を暗殺しても無罪だったのは、なぜだろう?
推古はそもそも百済王威徳王の妃、それが倭国の蘇我馬子の妃となり、
のちに用明天皇の妃となり、また上宮法王(聖徳太子)の妃となる。



桃太郎さんは実在したらしい。
その人は百済の国の王子「中大兄」、後に倭の国王となり天智天皇となった。(668年)
桃太郎の服装も乙姫様の服装も朝鮮のものであるし、龍宮城も朝鮮の建物である。
「桃」とは「百」すなわち「百済」のことをいっているらしい。

ついでに「どんぶりこ」という言葉、 「丸い」という朝鮮語らしい。
今でもどんぶりという器は確かに丸い。