『東高新聞』論説  (『東高新聞』第112号(昭和41年7月12日発行)から転載)
 我々は高校生  悔いなき生活を
 六月十七、十八日の両日、一年生は九重高原へ一泊二日の旅行に出かけたが、これは今までの二年の夏休みに行われていた六泊七日の修学旅行が、いわば変形したものである。
 なぜこのようになったか。これは修学旅行への参加希望者が、年々減ってゆくため、今年は女子だけの寂しい旅行となった。今後は修学旅行は中止され、今年の一年生は九重に行ったのである。しかし、ここで我々が忘れてならないのは、なぜ参加者がこんなにも少なかったか、ということである。
 確かに、費用、疲労などの面からいくと、問題があると思う。一週間の旅行のための費用は、やはり多額なものである。それを積み立てもしない。また、スケジュールが強行すぎるという声があるように、確かに最後の何日かは、バスのガイドの声もちょっとうるさいスピーカーのごとく、バスから降りて見学するのがおっくう、ひたすらに安眠を欲するのみ、ということにもなってくる。
 しかし、現在、参加を希望しない人は、単にこういう理由ばかりではない。いや、それ以外の理由の人が多いといえる。・・・・・一週間旅行するよりもその間勉強した方がましだ。とか、修学旅行に行く費用を他の自分の好きな方面に使った方がいい。ウロウロ見てまわったって、大したこともあるまい。疲れるばかりだ。・・・・・などの理由だ。また、「修学旅行なんて暇な奴ばかり行くものだ。」と考えている人さえいる。
 しかし修学旅行とは、我々にとって友達、あるいは先生方との親密さを増す機会をつくる楽しいはずのものである。高校時代において、大きな思い出の一つとなるものである。それとともにある意味で勉強、勉強と追いまくられている生活に潤いを与えてくれる。
 「現在の受験地獄はまちがっている。高校なんて灰色の青春だ。」などといっている諸君は、そこになぜ、積極的に心の安らぎが得られるもの、すばらしき青春となすことができるものを見つけようとしないのか。何も修学旅行ばかりではない。それは一つの例としてあげたわけであるが、ただ、大多数の人が受験地獄などで味けない生活を「学校が悪い。世の中、まちがっとる。」と、かたづけ、あきらめてしまっているような気がするのである。
 我々、若者の青春時代のうちの、高校時代は二度と返ってこない。大人にいわせれば、「学生時代が、何にしても一番よかった。」と語る。我々はこの三年間を最も充実した、我々高校生にしかできないような三年間にすべきである。それには学生の本分である勉学を徹底することも大事だ。が、その他には何かないだろうか。
 大学受験を目標にし、それに向かって突進して行くのもよい。しかし、たとえ受験に合格し、大学生活を始めてみてもあとをふり返って、「勉強、勉強としてはきたが、合格してしまったら、その他に何をしてきたのか、わからない。」ということになるのを恐れるのである。「何か残るものがあった。何かを得た。」ということが、いえるようにしたいものだ。
 その一つとして、クラブ活動があると思う。本校には運動部、文化部合わせて、三十余のクラブがあるが、いわゆる名前だけの所属の者が(名前すら入っていない人も)あまりにも多すぎる。入部して活動することなど、時間の浪費と考えているようだ。クラブ活動というものは、学校生活においての大きな要素のうちの一つである。七時間の授業を終え、疲れた頭や身体を、自分の好きなこと、趣味に特技に、没頭させる。そこでは学級よりも、さらに深く友と交わることができる。また上級生と下級生、あるいは先生とも接することのできるよい場である。クラブに参加しない者は、ねばり、協調性に欠け、ともすれば利己主義に陥りやすい。クラブ活動は、皆が考え、努力し、協力し、一つのことをやりとげるというところに大きな意義がある。拡大していえば、我々の人間形成に大いに役立つのである。
 しかしロープを針の穴に通すほどの狭き門≠ネどという、苦しい現実の立場におかれながらクラブとか修学旅行など、自分のやりたいことをやろうということは、並たいていのことではない。だが、やってやれないことはない≠アれにはあらゆる精根をかけた努力が必要である。そこには我々の力ではとうていできそうもないことがあるかもしれない。しかし、我々はそこまで達せんがために、努力を重ねるべきである。悲しみや苦しみ、悩みを克服してこそ、すばらしい努力の結晶があり、自分自身の大きな成長はある。
 高校時代は、大学への、あるいは社会への単なる足がかりではないのだ。全く独立した、高校時代としての意義があらねばならぬ。
 我々は生きている。生気のない、教わったことを、頭につめこむタイプライターではない。ただ惰性的にタイプをうつだけではいけないのである。それだけでなく、スポーツをすることの喜び、信じ合える友と語り合えることの喜びも知っている。そういう高校生活を送りたいものだ。
 この青春を、この高校時代を、我々高校生は、いかに充実したものにすべきか。心から自分が満足できるものにするには、どうしたらよいか。それが我々に与えられた最大の課題ではないだろうか。