『東高新聞』177号(昭和62年5月1日発行)より転載します。

  新聞部を憂う

                        前田勝之(40回生)

 現在、我が新聞部には稼動部員が実質上いない。この「稼動部員」とは何かを交えながら、新聞の本来の姿を考察してみようと思う。
 尚、この文章の性質上、新聞部批判になることが、明白であるから今回は新聞部の部長という立場を離れてこの文章を認める。
 新聞は報道しなければならない、読者が欲する情報を供給しなければならない。しかし、これが満たされているだろうか。
 勿論、校内新聞であるから、news source は、原則的には校内に求めるべきだが、それにしても自主的な取材が全くと言って良い程なされていないのである。
 紙面をみても、本校の生徒であれば当然承知のことばかりである。唯、先生方のお言葉を頂いてきて並べただけと言われても致し方ないのである。
 また、新聞は常に良き批判者でなければならない。
 例えば、今回実施されたパンの注文制にしても、冷静に見直し、そして正当に評価を下すべきなのである。問題点は無いか、どうすれば解決できるのか等を、中心となって考察すべきなのである。それだけのことを常に記事として考えながら原稿用紙の升目を埋めるのが、新聞部員本来の姿に相違無い。それこそ稼動部員の姿である。惰性でペンを動かし、一年前の記事を筆写するのは怠惰以外の何でも無いだろう。
 常に問題意識を持ち「果してこれで良いのか」を常に疑いながら生きるのが、新聞部員に限らず人間のあるべき姿ではないだろうか。
 今回、代議員会決定で本校生徒会の最高決議機関である生徒大会が流された。
 生徒会会則を一読し、生徒会自治の在り方を真剣に考える生徒ならば、「これでいいのだろうか」と、疑問の声を上げたであろう。
 しかし、その声は余りにも小さすぎて聞き届けてもらえなかったのでは無いだろうか。その様な声こそ、新聞が聞き取り、そして拡声器となって皆にこう叫ばねばならないのではないか。「果してそれで良いのか」と。