昭和24年当時の「長崎東高新聞」事情

3回生 有田俊雄さん談


 昭和24年頃は毎週月曜日(月4回)発行でした。
 その辺の事情を新聞部OB有田さん(3回生)が東高MLでお話してくださいました。


 何故週刊で発行できたか?

 当時は、といっても昭和24年度の一年間だけでしたが、授業は週5日しかなく、土曜日はクラブ活動の日でした。
 従って、毎週木曜日午後には、先生の目を盗みながら、集まった原稿に見出しを付け、新聞社に持参していました。
 私の記憶では、一度を除いては、毎回、紙面以上の原稿がありました。
 土曜日は、朝から新聞社に出かけ、自分たちで校正を行い、紙面の割付けなどは、新聞社の専門家のおじさんと一緒に、ぶっつけ本番でやっていました。
 紙は当時配給品でしたから、県庁に出かけて、自分たちで申請して入手していました。
 新聞社から見ても、当時はまだ夕刊というものがなかったから、毎週仕事を出してくれる学校新聞は、歓迎されたのでしょう。確か、月極め10円の購読料で、不足分は広告で補っていました。
 毎週月曜日の朝、正門で配りました。
 原稿書きも、広告取りもたいへんな仕事だったのですが、それほど苦にならずに、やってしまっていたようです。
 先生方から見ると、はらはらのしどおしだったでしょうが、学校側も新聞に載る生徒たちの意見を絶えず参考にしていたところもありました。