1)要理教育の必要性について

 「ゆとりの教育」という金科玉条に批判が加えられるようになったのはつい最近のことです。それまでは「受験のためにやたら知識だけを詰め込もうとした結果教育が荒廃した。だから教える内容を減らして子供たちがもっと伸び伸びと学べるようにしよう」と言われていたような覚えがあります。しかし、この「ゆとりの教育」の結果、掛け算ができない大学生が出現したりして日本の将来に暗雲が漂ってきたような気配が感じられます。

 カトリック教会の中でも、近年公教要理の勉強が「まる暗記の詰め込み教育」として否定的な評価を受けてきたような気がします。しかし、この要理教育の軽視の結果、教会の教えについて信者の間に無知が広がったことは否定できないと思います。この無知は福音宣教の妨げであるばかりでなく、信者の信仰生活の成長にも支障となります。

 と言うと、「キリスト教は愛の実践にあるのであって、知識を詰め込むことではない。私は頭でっかちな信者にはなりたくない」といった反論が帰ってくるかも知れません。確かに、信仰とは愛の実践であって知識を持つことではありませんが、同時に「知らなければ愛せない」のも本当です。『万人のための神学』という本の著者が、キリスト教の伝道をしていたとき、「神学をよく知っているあんたより、毎日ロザリオを唱えているアイルランドの無知な農民の方がずっと信仰が深い」といやみを言われ、次のような答えをしたそうです。「あなたの言うとおりだと思います。しかし、その農夫の信仰が深いのが彼の無知のゆえだと言うなら、それは賛成できません。彼が少しでも神学を知れば、いっそう神を深く愛せるでしょう」と。

 私たちが子供に勉強を励ますのは、一定の知識を得ることによって人格形成に役立てて欲しいと願うからでしょう。教会は使徒の時代から、信者が人格の完成と永遠の命にいたるために学ぶべきことを整理してそれを教えてきました。それが公教要理です。以下、伝統的な公教要理の順番に従って、カトリックの教えを簡単に説明したいと思います。


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