2)公教要理とは

 もし外国人から「日本の歴史を勉強したいのですが、何かよい本はありますか」と聞かれたらどう答えますか。私なら中学校の歴史の教科書を薦めます。なぜなら、縄文時代から現代までの日本の歴史が上手にまとめられているからです。「いやいや、歴史を勉強したければ原典に直接当る必要がある。だから、まず『日本書紀』から初め、『平家物語』、『太平記』などを読み進みなさい」と言う人はまずいないでしょう。というのは、確かに原典に直接触れることによって昔の人の考えやものの見方を理解することができますが、それだけでは歴史の全体像をつかむのは困難ですし、また時間がかかります。

 似たようなことがカトリックの教えの勉強にも言えます。カトリックの教えはイエス・キリストが始めたのだから、「キリストの言行録である福音書を読むのが必須」なのですが、それよりも前にキリストの言行をまとめた教科書のようなものを勉強し、全体像を頭に入れるのが普通の手順です。というのは、福音書はイエス様の教えを忠実にその言行を記すことを目的とした記録であって、イエス様は「今日は神について。次は人間について、その次は秘跡について・・」というふうに教科書に従うような形ではなく、その場その場の状況に合わせて教えを述べられた。この一見ばらばらの教えを、使徒たちは絶えず黙想し理解を深めより分かり易く教えられるようにまとめていきました。このようにしてキリストの教えが体系づけられ、後にカテキズム(公教要理)が生まれたのです。もちろん、聖書は神様のみ言葉であって、福音書は直接イエス様の教えを知り信仰を深めるため非常に有効であることを否定するわけでは毛頭ありません。ただ、その理解を容易にするために、まとめを利用することは賢明であると言いたいのです。

 このカテキズムは、信じるべきこと(信教)だけを教えるのではなく、信者はいかに生きるべきか(道徳)、その途上で人は神からどのような助けを受けるか(秘跡)、人は何を神に頼むべきか(祈り)についても説明します。つまり、この勉強は決してただ頭を鍛えるためだけではなく、信者としての生活にもしっかりした指針を与えてくれるのです。

 前回に続いて公教要理の意味についてくどくどと話しましたが、これはその意味が理解できなければ、これからこの場で説明することを読む気もしないでしょうから、最初にはっきりさせておくのは無駄ではないと思うからです。公教要理はつまらないものでないことを。次回から、その内容に入りたいと思います。


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