4)神の存在−2

 聖書と教会は、「神の存在は頭でわかる」、つまり「信仰がなくても理性で神が存在することはわかる」と教えます。でも、こう言うと「神様は目に見えないのだから、ない」と言い張る子供が必ず出てきます。そこで、まず目に見えなくても存在するものがある、ことをはっきりさせましょう。

 目に見えないものでも例えば「空気」や「ビールス」などは、ただそれが非常に小さいという理由で目に見えないのですが、それらは重さや色や大きさをもった「物質」です。では、物質でないものが存在するのでしょうか。答えは「はい」です。例えば、「いのち」は見えないものです。動物が自分で動いたり成長したりすることは「いのちの現われ」にすぎず、「いのち」自体は見えません。そこで「いのちは見えないので、ない」と言うとおかしなことになります。素直に考えれば、いのちは見えないけど存在する、という結論に達するでしょう。

 さて、それでは神様はどうして存在すると言えるのでしょうか。「いのち」の場合と同じように、直接「これが神様です」と示すことができないので、間接的に「神様の現われ」を示すしかありません。この証明の方法は推理小説に似ています。つまり、推理小説では主人公の刑事は必ず事件が起った後で現場に現われる。そして、その場や関係者をよく観察して様々な証拠を集め、これらの「見える」証拠から出発して「見えない犯人」に至るわけです。

 「神が存在する」という事件が残した証拠は、人間が確実に知ることのできる「自然界」です。ぼやっと見ていると気がつかないかも知れませんが、この自然界には驚くべきことがいっぱい詰まっています。例えば、自然界は人間が何もしないでも、完全にリサイクルのシステムを持っています。自然界でごみは出ません。あらゆるものが何かの役に立っている。自然界の動物は、生ごみの処理やごみの分別などの心配はまったくしないのに。あるいは個々の生物体を見れば、それがどれほど精巧にできているかは、中学や高校で習う生物の授業で十分知ることができるでしょう。

 ところで秩序や調和があるならば、その裏に必ず知性がある。しかし、この自然界の調和や秩序は偶然そうなったと主張する人がいます。それなら、爪楊枝を見つけて、「これは偶然に火山の爆発の結果生まれた」と考えるのでしょうか。当然、「この爪楊枝は誰かが作った」と言うはずです。では、爪楊枝より無限に複雑な自然界が偶然にできたと考えるのは、何かの偏見に凝り固まっている頭でなくて何でしょう。

 実は、上に挙げた証明方法の他にも、神様の存在を説明する手段は色々あります。紙面の関係上ここではそれらを省きますが、別に難しい勉強をしなくても、常識と観察眼と素直な心を備えていれば、人は誰でも神の存在を認めるようになるのです。たしかに、そのような仕方で知る神はある意味で「冷たい存在」で、これに対して聖書は、「父なる神」「慈しみ深い神」「愛である神」を教えてくれます。しかし、神の存在が理性で証明できるということは、私たちの信仰が盲目的なものでなく、ある程度「納得して信じる」ものであることをはっきりさせてくれます。これは大切なことだとは思いませんか。  


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