6)無神論−2

 前回は、「神様なんかいない」と言う人たちの考えを取り上げました。今回は、難しい言葉で言うと実践的無神論者、分かりやすく言うと「神様はいてもいなくても同じ」と考え、「あたかも神がいないかのように」生活する人々について見ていきたいと思います。

 『日本人は無宗教か』という本があります。日本人は宗教的だという本です。確かに、圧倒的多数の日本人は自ら無神論者と言いながら、お守りを買ったり、仏滅を気にしたり、縁起を担いだり、といったような非科学的なことを平気でしているようです。この人たちは唯一の創造主を認めないにしても、この世で起ることは「何か目に見えない力」(お守りや日の吉凶や星座など)に影響されると心の底では信じているのです。実際驚くべきことに、日本では何らかの宗教団体に属している人は2億人以上いるそうです。(実は、この現象は、人間が生まれつきい宗教的であるという真理を示しているに過ぎません。言い換えると確信的な無神論は自然に反することなのです)。

 しかし、だからといって日本が宗教的な国だと言えば、誰もが首をかしげるのではないでしょうか。大多数の日本人は、「神やあの世のことなんか考えてもしょうがない。それより豊かな生活を目指して楽しく暮らすのが一番」と考えているのでは。もちろん、この中で「いや物質的な豊かさは人の心を満足させない」と気付いて、もっと深いものを探している人もいることを忘れるわけにはいきませんが。

 さて、この現実世界だけに目を向ける種類の人間は、日本だけでなく欧米諸国に多く棲息し、その影響は発展途上国にも恐ろしい勢いで広がりつつあり、またカトリック信者の中にも見られます。でも「神様はいようがいまいが、どうでもよい」存在なのでしょうか。

 前回無神論の根底に人間の高慢が潜んでいると言いましたが、神のことを避けようとする人々にも同じ病根が見られます。これはちょうど何の不足もないのに「親はうるさいから独りで生活をしたい」と思う裕福な家庭に育った若者のようです。神のことをまじめにとると「勝手気ままな生活」はできません。例えば、礼拝、祈り、などの義務が生じます。また「神様は何でもお見通し」と言うように、悪いことから手を引かねばなりません。このような人にとっては「神はうるさい邪魔者」なのです。

 でも、親の例に戻りましょう。子供にとって親を無視し自分勝手な生活は幸せへの道なのでしょうか(もちろん、普通の親らしい親の場合です)。親から逃れて得る自由が本当の幸せではないということは、「放蕩息子のたとえ話」を読めばよく分かると思います。

 また、「神はいてもいなくても同じ」は本当でしょうか。神がいないならば、この世界は偶然の産物になります。ということは、人間も偶然の産物、つまり偶然に生まれてきて偶然に死んでいく存在です。言い換えれば、人間の存在には何の意味もないということです。無神論を心から信じる人は、こういう結論に達します。ただ、人生は無意味だと考えて平気でいられる人はよほど強い人で(ニーチェは気が狂ってしまいました)、大部分の人は神以外に何か人生をかける価値のあるものを無理やり作り出さずにはいられないようです。でも、永遠無限の神以外に、人生をかける価値のあるものはありません。

 タイという国で日本人の家に働いていたタイ人のメイドさんが、主人が無宗教だと知って、辞めていったという話を聞きました。「神を信じない人だから、平気で悪いことをするはず」と考えたそうです。

 神に愛され生かされている、神の摂理の中で生きていることを知るのは、幸せな生き方ではないでしょうか。この幸せをあまり感じないならば、それは神との付き合いが冷たいものだからという可能性があります。ちょうど、親と一緒に住んでいながら、ほとんど口も聞かずに他人のような付き合いをする子供が、自分の親のありがたさを感じないように。私たちは日々の生活の中で神様がどんな位置を占めているか、少し考えてみたらよいかもしれません。


5に戻る   7に進む
目次に戻る