11)創造−3

 18世紀から盛んになった理神論という考えでは、神は万物を創造した後は、まるで昼寝でもしているように、この宇宙や人間の変遷には関わりをもたれないと言います。しかし、キリスト教はそうは教えません。宇宙がこのようにあるのは、神が宇宙を創造した後も絶えず存在を支えておられるからです。つまり、神は万物の動きも統治されておられるということです。これを神の主宰と呼びます。このことをイエス様は美しい文章で教えられました。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように(栄華を極めたソロモンよりも美しく)装ってくださる」(ルカ、12章、28)と。万物を神様が治めておられるならば、盲目の運命などはありません。またいわゆる偶然もありません。つまり、すべては神の思し召しのままに、ということになるのです。

 しかし、ここで大きな難問に突き当たります。もしすべてが神の思し召しのままならば、どうして悪が存在するのか、という問題です。この議論は昔から根強くあるもので、教会の聖人たちを始め、古今東西の正直な人間はみな頭と心を悩ましてきました。ご興味があるならば、例えば『ヨブ記』、あるいは『小さき聖テレジアの自叙伝』をお読みください。

 話を混乱させないために、悪には二種類あることを確認しましょう。一つは、人間の罪で、これこそ正真正銘の悪ですが、これについては原罪の項で見ます。もう一つは、災害や事故や病気などのような、人の自由意志から生まれるのではなく自然現象が原因となるものです。これは物理的悪と言われ本当の悪ではありませんが、今回はこちらを見てみましょう。

 なぜ自然災害が本当の悪ではないかというと、それらは直接に人間の霊魂を滅ぼすことがないからです。しかし、そうだからと言って、たとえば、地震のニュースを聞くと、どうして神様はそのような場所に地震が起きることをお許しになるのか、という疑問が起るのではないでしょうか。何の罪もない人々がそのために命や財産を失いひどい生活を強いられる。神様が全能ならば、その地震をなくしたり、せめて別の場所で起すとかできるはずなのに、と。

 私たちにわかっていることは次の二つのことだけです。つまり、一方で神がすべてを動かしておられるがゆえに災害なども神と無関係ではないこと、他方で神が人間を愛されていることです。難しいのはこの二つが矛盾するように見えることです。ある人は「神が人を不幸に陥れるような災害を起すなら、私はそのような神は信じない。私の信じる神はそのような災害とは関係がない」と言いますが、これは人情としてよく理解できるしそう理解したいとも思いますが、神の主宰を考えれば、災害ですら神と関係があることは否定できません。

 カトリックの教えでは、例えば、聖パウロが「現在の苦しみは将来私たちに現されるはずの栄光に比べると取るに足らない」(ローマ、8章、18)とか「神を愛する者たち、・・には万事が益となるようにともに働く」(同、28)と言って、それらの災難の裏に人知を越える神の計画が隠されていると説明します。つまり、神はそのような悪からも善を引き出すことをお望みだ、ちょうど親が子供を鍛えるためにわざと厳しい環境を与えたりするのと同じだ、というのです。

 なるほどこれは正解なのですが、この問いがヨブの昔から今に至るまで考え続けられているという事実は、人間には納得できていないことを示します。そして、きっと世の終りまでこの問題を解決できることはないでしょう。それはなぜかと言えば、無限の神のなさることを有限の人間がすべて理解することは不可能だからです。もし、神のなさることすべてを理解できるならば、その神は人間の作った神と言って間違いない。理解できないところがあるが信じる、という態度に功徳があるのです。何も悩みもなくすべてがうまく行くときに神を信じることは簡単ですが、苦しみの中にあるとき神を信じることは謙遜な人にしかできない価値のある行為です。神が苦しみを送られる一つのわけは、人間の信仰をより価値あるものとすることにあると言えるでしょう。苦しみの中に価値を見つけるのはキリスト教の特徴です。日々の生活の中で、試みてはいかがでしょうか。十字架のイエス様を見つめるのは役にたつかも知れません。


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