13)天使−2

 聖書とカトリック教会は、悪魔という見えない純粋な存在があると教えます。またこの悪魔は天使が罪を犯してそうなったとも(『ペトロの第二の手紙』、2,4。『ユダ』6参照)。ただ天使がどのように罪を犯したのかを詳しく伝える(ちょうど人祖が最初の罪を犯したときのように)個所はありません。すばらしい知性を備えた天使がどうして罪を犯すのか理解しがたいですが、それは高慢の罪であったようです。

 罪の問題は自由と大いに関係があります。この被造界には鳥獣や石木のように自由をもたない存在と、人間や天使のように自由な存在があります。神が自由な存在をおつくりになったわけは、それらが「自由に」神を愛するようになるためでした。というのは、愛という行為は自由でなければできないものだからです。ある人に包丁を突きつけて「私を愛しなさい」と言えば、「わかりました、愛するから殺さないでね」と言われ「よしよし」と満足する人がいるでしょうか。「強制されて愛するならば、それは本当の愛ではない。ところが、自由であれば、「愛さない」と決心することもできます。ここに罪が生まれるのです。

 さて、天使は自由なものとして造られたために、自由に神を愛するか愛さないかを決める必要がありました。そこで、数はまったく不明ですが、天使の一部は「私は神には仕えない」と態度を決めたのです。

 ところで、純粋な霊は一度決めたことを取り消すことができないのです。肉体と霊魂からなる人間は、一度決心したことをあとで翻すことができます。しかし、天使や、肉体から離れた人間はそれができない。ということで、「私は神には仕えない」と言った天使たちは、永久に神に反抗する意志をもつようになったのです。神は人間の救いをお望みですから、悪魔はこれをなんとしても阻止しようとするのです。映画やドラマに「悪魔くん」というような人間の友達になるような悪魔のキャラクターが登場することがあるかも知れませんが、これはまったくのでたらめです。「悪魔は最初から人殺しであった」とイエス様は教えています(ヨハネ、8、44)。

 さて、悪魔の存在は私たちの内面と周囲を少し観察すれば、合点が行くことではないかと思います。人類の歴史、あるいは毎日のニュースを見ていると、常軌を逸した残酷な行為を目にすることがあります。ナチスによる600万に及ぶユダヤ人(この他、ジプシーやカトリックの聖職者も多数)の虐殺。スターリンが粛清した人間の数は2000万人とも言われます。最近ではカンボジアのポルポトがわずか3,4年の間に200万人(同国の人口は700万くらい)を虐殺。毛沢東の支配下の中国でもまだ明らかにされていませんが、似たような事件があったようです。ところで、これらの虐殺に荷担した人はみな鬼のような人であったかというと、ナチスを裁いたニュールンベルグ裁判で重大犯罪人には普通の人間のように見えた人が多かったそうです。では普通の人間のような人がどうしてそのような残酷極まりない事件を引き起こしたのか。そこに人間の憎しみ、嫉妬心、恐怖心などの弱さを炊きつける存在が考えられないでしょうか。

 また私たち自身の経験にも手がかりが見つかります。つまり、自分はまったくそれを望んでいないのに、とても醜い考えを頭に浮かべることはありませんか。この悪い考えはどこから来るのでしょうか。自分からではないはずです。自分が望んでいないのですから。だとすると自分の外からであって、そのような悪い考えを人間の頭に吹き込む存在が垣間見えてきませんか。

 悪魔は天使の堕落したものですから、決して全能ではありません。悪魔が働けるのは神がお許しになる範囲内でのことです。聖書には「神は・・あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう逃れる道をも備えてくださいます」とあります(コリント前、10、13)。ですから、悪魔を過度に恐れる必要はありません。しかし、霊的な生活において、このような敵がいること、そしてその敵は人間の高慢心や弱さを上手に利用して、私たちを神から離れさせようと絶えず狙っていることは知るべきでしょう。「我を知り、敵を知れば百戦危うからず」ですから。英国国教会の作家C.S.ルイス、『悪魔への手紙』(新教出版)に悪魔の戦略が見事に説明されています。


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