17、人間−4

 前回、神が人祖に掟を与えたのは、人を自由な存在として御造りになった結果であることを見ました。でも、人祖は私たちとは違う完成品として作られたのに、どうして罪を犯したのでしょうか。禁断の実を食べたという罪の正体は何なのでしょうか。

 この罪は貞潔に反する罪だと言う人が昔も今もいます。たとえば統一原理の創始者文鮮明もこのひとり。しかし、教会は高慢の罪だと教えます。悪魔がエバに語った「それを食べると、神のように善悪を知るようになる」という言葉がそれを示しています。だいたい、罪を犯す前の人祖では、理性が体を完全に支配していたので、体の欲望に引きずられることはありえません。

 エバは知能も優れていたのですから、「神のようになる」ということが全知全能の神になる事を意味するとは考えたはずがありません。「神のように善悪を知る」とは、善悪の基準を神から与えられたものとして服従するのではなく、自分が善悪を決めるものとなるという意味です。平たく言えば、「自分のすることの良し悪しは自分で決める。もう神からとやかく言われる筋合いはない」という態度を取ることです。反抗期に突入した子供が親に対して取る態度と似ていませんか。神中心でなく、自分が世界の中心になろうとしたこと、これが人祖の罪の本質です。

 創造された世界は、最初は秩序に満ちていました。秩序は序列を前提とします。たとえば、被造物は神に従っていました。人間の内部でも体は理性に従い、被造界でも「地を支配せよ」と言われた人間に、自然界は従っていたようです。ところが、人祖の罪によって、まず人間が神に逆らいました。すると人間内部では体が理性に反抗し、自然界も人間に対して牙を向くようになったのです。つまり、下克上の世の中になったのです。最初にあった調和は崩れ、今私たちが目にしている矛盾や苦しみが生まれたのです。

 人間は聖性の恩寵を失っただけでなく、本性に傷を負ってしまいました。そして、今後人祖から生まれる人間はすべてこの状態(これを原罪と言います)で生まれてくるのです。つまり人祖の罪は遺伝するのです。これを聞くと当然、「なんで親の罪を子供がかぶらんといかのんか」と言う疑問が湧いてくるでしょう。このことも奥義なのですが、少しは理解できることです。

 大金持ちの親がいた。その子供は親が死んだら莫大な遺産が相続されることを期待していた。しかし、この親はギャンブルかなにかで財産を失ったどころか借金をつくって死んでしまった。すると、この借金は子供の肩にのしかかります。子供はもちろん文句を言うでしょうが、財産を相続する可能性があったのだから、借金も相続しなければならないとあきらめねばなりません。いいものは受け取るが、悪いものはいや、では通りません。アダムとエバが二人だけ存在していたとき、彼らは人類を代表していました。ある意味で彼らの中に、全人類が入っていたのです。

 原罪にはもう一つ問題があります。それは、先ほど欠陥品と言いましたが、どれくらいの欠陥品かという問題です。つまり人間に起った内部分裂のひどさはどのくらいかという問題です。ルターを始めいわゆる宗教改革者たちは、「人祖の罪の結果、人間は完全に腐りきり、もう良いことをすることができなくなった」と言います。つまり人間の自由を否定するのです。救われたいなら、ただただキリストが自分を救ってくれると信じるしかない、と言うのです。

 それに対してカトリックは、人間は確かに体の反抗に苦しむようになったが、まだ自由は残っていると主張します。これは私たちの経験とも一致するでしょう。良いことをするのは簡単ではないことが多いが、でも頑張ればできる(本当は神の助けがあるのですが)。聖パウロは「私たちはこのような宝を土の器に納めている」(コリント後、4章、7)と言っていますが、自分の弱さを自覚しながら神の助けに希望を置いて、神と人々に仕えて生きることは可能だという結論が出てきます。


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