19)旧約時代−2

 福音書を読んでいると、「それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という文句が時々出てきます。これは、旧約聖書にかかれているメシア(救い主)についての予言がイエスにおいて実現したのだ、という主張です。実にイエスが他の宗教の創始者と大きく異なる点は、その出現が前もって予告され、人々から期待されていたという点です。洗者ヨハネがイエスに尋ねた「来るべきお方はあなたですか、それとも他の方を待たねばなりませんか」という問いは、この事実をよく表しています。

 旧約時代ユダヤ民族に預言者と言われる人々が現れました。そのうちイサヤやエレミアのように預言書を残した人もいますが、エリアやエリゼオなどのように書物を書き残さなかった人もいます。預言者とは、神様の広報官のような役割を担った人で、最大の役割はイスラエルの民を導くことでした。将来の予言は量的にはそれほど多いものではありません。しかし確かに、神は彼らを道具のように使って、将来のことを民に教え、彼らが望みを捨てないように計られました。そのおかげで、ソロモン王(紀元前10世紀の末)以降、衰退の一途をたどったイスラエル民族は、長い異民族による支配にもかかわらず(紀元前6世紀には約70年間国を失いました)、民族としての自覚も先祖の信仰も保つことができたのです(これは世界史の中で他に例を見ない出来事です)。

 それらの預言者は、メシアの生まれる家系、誕生の場所、その教え、受難、死去、復活、教会などについて予言しています。しかし、これらの大部分は極めてあいまいな表現で、ことが起ってから初めて「これは預言者を通して云々」と理解できるものです。新約聖書は旧約の予言を下敷きにして書かれたフィクションである言った人がいますが、それはどんなに優れた想像力を持つ人にもできないと断言できます。実際に予言の言葉を読んでみれば、そのことは一目瞭然でしょう。

 予言の中心主題は、民を救うはずのメシアでした。しかし、このメシアがいかなるお方か、つまり、人間なのか、天使なのか、神ご自身なのか、は不明でした。また、一方で「その王国は滅びることがない」(サムエル下、7、13)とか、「地の果てまでお前の領土とする」(詩篇、2、8)のように偉大な権力を備えた王のようかと思えば、他方では「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」(イザヤ、53、8)のように苦しむ人として描かれている個所もある(イザヤの50章以降の「主のしのべの歌」や『詩篇』22参照)。これらの一見矛盾するメシア像が、イエスキリストにおいて過不足なく実現したのです。

 予言のほか、旧約聖書には「前表」ということもあります。これは、イエスが啓示する様々な奥義(秘儀)を、言葉によってではなく、イスラエル民族がたどる歴史の中の出来事や人物によって前もって示すというものです。これも予言と同じく未来を完全に知っておられる神の配慮です。たとえば、イスラエルの民が紅海を渡って救われたのは水で人間を救う洗礼の前表、彼らが砂漠で空腹を満たしたマンナはご聖体の前表、というわけです。こちらは予言よりもずっとあいまいで、ことが実現してからでないと決して気付くことはできません。

 まともな教育機関にはカリキュラムというものがあります。これによって、生徒に適切な時期に適切な内容を教え、緩やかな坂を上るようにして、簡単なことから少しずつ難しいことを教えていけるようにするためです。小学生に微積分を教え、中学生に九九を教えたら、子供は混乱しますよね。神様はよき教育者として、イスラエルの民の宗教教育のカリキュラムを持っていたと考えてみてください。旧約聖書は、新約時代にイエス様がお教えになることを理解できるように考えられた準備期間です。そのことを教会は「新約が旧約のうちに隠され、旧約が新約のうちに明らかになる」(第二バチカン公会議、啓示憲章、20)と表現しています。ごミサの第一朗読に耳を傾けるだけではなく、新約聖書の注に示されている旧約聖書の個所を読んでみるのは、新約聖書をよりよく理解するためにとても役に立つでしょう。


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