24)イエス・キリスト−5(その年代)

 今まで数回にわたって福音書が歴史的な書物であることを話してきましたが、今回はそれではイエス・キリストの生涯はいつどこで展開されたのか、を見てみましょう。 「どこで」は簡単。福音書によれば、イエスの活動範囲はほとんど現在のイスラエルとレバノンという狭い地域に限られます。なかでもイスラエル北部のガリラヤ地方と南部のユダヤ地方が、その宣教の舞台でした。

 「いつ」については、イエスの誕生、宣教の開始、ご死去の三つが分かれば十分でしょう。イエスの誕生は西暦一年ではありません。これは次の事情によります。キリスト教が生まれた頃は西暦という暦はなく、ローマ建国(紀元前753年)を元年とする暦を使ったり、皇帝の治世やギリシアのオリンピックを基準として年を示していました。ルカ自身、洗者ヨハネの活動開始の年を「皇帝ティベリウスの治世の第15年・・」と言っているのはその例です。6世紀にある修道士がイエスの誕生を人類史の中心にしようと考え、自分の知っていた史料をもとに「ローマ建国から754年」を西暦一年と計算しました。ところが残念なことに、これには誤差があったのです。

 福音書はイエスが「ヘロデ王の時代」に生まれたと言っています。ところがこの王はローマ紀元750年に死んでいることが、以前お話したヨセフスの『ユダヤ古代誌』に載っているのです。つまり、イエスの誕生は遅くても紀元前4年ということになります。同じ『古代誌』では、ヘロデ王は死ぬ前に約半年間病気療養のためにエルサレムを離れていたと記しています。マタイによれば、東方の博士たちがエルサレムに到着したとき、ヘロデ王は元気でエルサレムにいた、また「お生まれになったユダヤ人の王」を殺すために、ベトレへム近郊に住む「二歳以下の男の子」を殺させたとあり、これらのことを総合すると主の誕生は紀元前5,6年ころ、と計算されるのです。それ以上前に遡らせると、たとえば紀元前8年にすると、今度はイエスが公生活を始められたとき「およそ30歳」(ルカ、3章、23)であったという記述から少し無理が生じてきます。

 次に公生活の開始時期はどうでしょうか。これについては、上述のようにルカが「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンシオ・ピラトがユダヤの総督・・」(3章、1)と、洗礼者ヨハネの活動がいつ始まったかをかなり正確な年代を示してくれています。多くの学者も指摘しているように、福音書の記述を読むと、ヨルダン川での洗者の活動の開始と、イエスの洗礼との間にそれほど時間差がないという印象を受けます。それで、上述のルカが示す年代は、イエスの活動の開始時期とほぼ一致すると考えてよいでしょう。

 このティベリウス皇帝は前帝アウグストゥスの治世の晩年、紀元後12年から共同統治者としてローマ帝国に君臨しましたので、第15年目は紀元27年に当ります。もしこの年にイエスが宣教を始めたのなら、そのとき33歳前後で、ルカのいう「およそ30歳」と合致します。ピラトがユダヤ総督の任にあったのは、紀元26年から36年のことで、これも福音書と合致します。

 もう一つ興味深いのは、エルサレムの神殿で商売人たちを追い払ったイエスに向って、ユダヤ人たちが「この神殿を建てるのに46年もかかった」(ヨハネ、2章、20)と言っていることです。ヨセフスによれば、その神殿の建設は紀元前20ー19年に着工されたそうで、それならその完成は紀元26−27年になり、イエスの宣教が27年以降であったことの証明となります。

 最後に、イエスのご死去の年。福音書によれば、主のご死去はニーサンの月の金曜日、しかも過越祭の前日であった、と言っています(正確に言うと、当時過越祭を金曜日に祝った人と、土曜日に祝った人々があったようですが、今はその問題に立ち入りません)。紀元30年の前後で、過越祭が金曜日に当っているのは30年と33年だそうです。この二つのどちらをとるかですが、福音書からイエスの宣教(公生活)は3年くらいしかなかったという点を重視すると、十字架の惨劇は紀元30年の4月7日(あるいは8日)という可能性が最も高い、というのが現在の研究の結論のようです。

 イエス様の生涯の時間的、空間的舞台を定めた後で、次回からその人物像、ご生涯に迫ってみたいと思います。


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