28)イエス・キリスト−9(三位一体)

 ここ数回にわたってイエス・キリストが人間であると同時に真の神であったという点を見てきました。これがキリスト教の信仰の核心です。イエスが神であると信じる最大の理由が復活であって、パウロは「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(コリント二、15、14)とまで言っています。

 さて、ここで新たな問題が出てきます。つまり、もしイエスが神ならば、イエスが「天の御父」と呼ばれた神はどうなるのか。また御父とイエスが弟子たちにお送りになると約束された聖霊はどうなのか。神はお三方おられるのか、という問題です。

 イエス自身、「イスラエルよ聞け。われわれの主なる神は唯一である」と神が唯一であるというユダヤ教の信仰を断言されました(マルコ12、29)。しかし、しばしば自分が天の御父の子であるとも主張しています。確かに「神の子」という身分は人間にもあてはまることで、イエスも弟子たちに、祈るときは神に対して「天におられる私たちの神よ」と呼びかけるように薦められました。しかし、イエスは自分が神の子であることと、使徒たちがそうであることとは本質的に異なることを教えられました。「私の父、あなた方の父」と区別されたのはそのためです(ヨハネ20、17)。また、父と自分と並んで聖霊(霊、父の霊、真理の霊、慰め主、弁護者などとも呼ばれます)も別の神であると示されました(ヨハネ14〜16章参照)。

 それで、教会は最初から神は唯一であると同時に、父と子と聖霊をそれぞれ神として信じたのです(聖パウロ、ペトロ、ヨハネの手紙を参照)。しかし、単純に考えるなら、父が神、子が神、聖霊が神ならば、神は三方おられることになるわけで、このことについて誤った教えが出てくるのは避けられませんでした。

 その異端の中で最も影響力を持ったのが、3世紀末に出たアリウスという司祭の説です。彼によれば、「イエスは被造物だが、そのすばらしい行いのために神があたかも神の子のようにされた」というのです。その根拠として、聖書に「その日、その時を知る者は一人もいない。天にいる使いも子も知らぬ。父だけは知りたもう」(マルコ12、32)とか、「父は私よりも偉大なお方」(ヨハネ14、28)という個所があるで、と主張しました。アリウスの説なら、神は御父だけで、神の唯一性を守るのに何の問題もありません。

 しかし、「このアリウスの教えはどこか変や。教会が最初から教えてきたことと違う」と気づいた人たちが、聖書には父と子が同じであると示す個所も沢山あると言って、異議を唱えました。時はローマ帝国の迫害が終わったばかりのころで、教会の中で分裂があることを嫌った皇帝はこの問題を議論するために公会議の開催を示唆。そこで325年、二ケーアという場所に全世界から318人の教父が集まり、このアリウスの教えを排斥し、次の信経を残しました。「我々は信ず、全能の父、すべての見えるものと見えないものの創造主である神を。神の子、我々の主イエス・キリスト、すなわち父の本性より神のひとり子として生まれ、・・・父と同一実体である。・・。また聖霊を(信ず)」と。

 この信経で、大切な言葉は、イエスが「父と同一実体である」という言葉です。では、実体とは何か。実体とは「それは何ですか」と聞かれたときに答える言葉です。たとえば、「寅さんは何か。博(ひろし)は何か」と聞かれれば「二人ともヒトだ」と答えます。これは寅さんと博がヒトの実体を持っているということなのです。しかし、寅と博は、同一実体ではありません。ともにヒトの実体を持っていますが、その二つは異なる実体です。でなければ、寅は博だ、という奇妙なことになってしまいます。ところが、神様の場合、父とイエスは同じ実体なのです。では、父はイエスと同じなのかと言うと、違うのです。それを表すために、「子は父から生まれた」と言っているのです。では、父と子の違いを表すものは何でしょうか。

 父と子の違いを表すために、キリスト教の神学者たちは「ペルソナ」という概念を発明しました。「ペルソナ」とはもともとギリシアの演劇で使った「お面」のことでした。役者が弁慶のお面をつければ弁慶になるが、義経のお面をつければ義経になる。というわけで、ペルソナとは、「それが誰か」を表すものという意味を与えられました。この言葉を使って、神学者たちは、「父と子は、実体は同じだが、ペルソナは違う」と説明したのです。言い換えれば、神様に向かって「あなたは何ですか」と尋ねると、「我は神なり」という答えしか返ってきませんが、「あなたは誰ですか」と尋ねると、「我は父なり」「我は子なり」「我は聖霊なり」の三種の答えが返ってくるというわけです。

 ここで言っておかねばならないことは、この教えは「人間の頭では理解ができないが、神が教えられたので信じる真理」、つまり秘儀(神秘)であるということです。キリスト教には、秘儀というものがいくつかあるのですが、三位一体はその中でも最大の秘儀です。これは神様がご自分の内側の生活をお教えくださったものと言えるでしょう。ちょうど、私たちが特に親しくなった友達に自分の家族を紹介するのに似ていませんか。そう考えると、私たちは感謝をもって、父、子、聖霊のそれぞれのペルソナに話しかけるのは当然のことと思われるでしょう。

 また、三位一体は、神が孤独な存在でないことも教えてくれます。唯一の神は自己を無限に愛するのですが、自分で自分を無限に愛する何かエゴイストに見える神ではなく、異なる三つのペルソナ、父と子と聖霊の互いの愛なのです。人間の家族の愛は、その神の愛を反映しているとも考えられます。


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