31)イエス・キリスト−12(ご昇天)

 イエス様は復活の後40日目に、エルサレム郊外のオリーブ山から天に上られます。(ルカ24章、51.マルコ16章、20)。この事件によってイエスの地上での生涯は幕を閉じます。主は復活されて以降は、以前のように弟子たちと一緒に生活されず、何度か出現されたにとどまりました。それは本当に復活したことを事実によって示すためと、また弟子たちに様々なことを教えるためでもありました。おそらく弟子たちは、主が生前教えてくださったが、まだ十分に理解できなかったことを質問したでしょう。例えば、「どうやって罪を赦すのか」、「最後の晩餐で『私の記念としてこれを行え』と命じられたことは、どのように行うのか」など。

 こうして弟子たちが教会という宗教団体を始めて行くことができるのに十分な信仰と知識が備わったと思われたとき、この地上から姿を消されました。その仕方は旧約時代のエリアのように火の車で天に引き上げられたのではなく、自分の力で昇天されます。その後「神の右の座に着かれ」ました(マルコ16章、19)。これは、あれほど苦しまれた御子に御父がお与えになったもう一つの栄誉であると考えられます。これから後、世の終わりに今度は栄光のうちに再臨されるまで、主は私たちの前にそのお姿をお見せになることはありません(奇跡的な出現を除いて)。

 「でも、もしイエス様がずっとこの地上にい続けられたら、もっと上手に早く福音宣教が進んだんとちゃう」と思いませんか。確かに最後の40日間に弟子たちの教育の総仕上げをされましたが、とは言ってもペトロたちが人間であることに変わりはなく、福音宣教は苦難に満ちたものとなりましたし、教会の歴史を見てもいたるところに人間の弱さによる障害が目に付きます。しかし、主はそれを十分ご存知で、教会の指導を使徒たちに任されたのです。自分でインドや中国やヨーロッパに行く代わりに、ペトロたちが苦労して宣教旅行をすることを望まれたのです。ただ、まったく放ったらかしにしたわけではありません。第一に聖霊を送られました。ご昇天以降、教会の見えない指導者は聖霊です。この他に、イエス様ご自身もご聖体の中に残られました。またマリア様を信者の母としてお与えになりました。このような超自然的な助けをちゃんと確保されたのです。だけど、それらはどうしようもないように見えるピンチに現れる水戸黄門の一味のようで、普段は人間だけが教会の舵取りをしているように見えるのです。どうしてもっと助けてくれないのでしょうか。

 小学校の先生のことを考えてください。先生は色々なことを児童にさせます。例えば運動会の応援。もし先生が最初から「こうしなさい、ああしなさい」と言って指導したら、きっと子供たちだけでするよりずっと早く上手な応援ができあがるでしょう。が、これでは子供たちは何も学びません。上手な先生とは上手に児童を動かす人です。そして、見かけは何もやっていないように見えて、実はちゃんとお見通しなのです。先生から簡単な指示を受けて、試行錯誤を重ねてやっていくうちに、子供たちは応援の仕方やみんなで協力することを学び、一つのことを達成した自信を身につけるのです。神様はこの先生のようなお方です。私たちに難しい福音宣教をお任せになって、私たちが苦労することによって成長することをお計らいなのです。現代は「できるだけ楽して、もうける」のが理想とされるようですが、昔は「苦労は買ってでもせよ」と言われていました。どちらが本当でしょうか。実は苦労した方が、自分の身につく何かを得て、自分が成長することは間違いないと思います。つまり、苦労した方が得なのです。

 しかし、苦労と言っても、私たちのする苦労はそう大したことではないでしょう。半端ではない苦難の生涯を送った聖パウロは言います。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います」(ローマ8章、18)。イエス様は先に天に行かれて、私たちのために場所を用意すると言われました(ヨハネ14章、3)。ご昇天は、私たちの本当の祖国がどこにあるかを教えています。私たちを取り囲む現代社会はこの地上のことしか話しません。そんな環境の中にあって、本当の祖国を見失う不幸に陥らないため、ご昇天のことを考えるのは有意義なことかと思います。


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