35)教会−2(キリストの神秘体)

 教会がまだ生まれたばかりの頃、血眼になってこの宗派の信者を迫害していたユダヤ教徒の青年サウル(後の聖パウロ)は、ダマスコの城門の手前で光に包まれ落馬します。そのとき「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」と言うイエスの声を聞きます。「主よ、あなたは誰ですか」との彼の問に、「私はあなたが迫害しているイエスである」との答えが来ました(使徒言行録、9章3〜5)。

 イエス様はへんなことをおっしゃると思いませんか。パウロが迫害していたのはイエス様ではなく、キリスト信者でした。でも、この言葉から、イエス様はご自分と信者がいわば一心同体であると宣言されたのです。回心のきっかけとなったこの教えを黙想した結果、パウロは教会がキリストの体であって、イエス様はその頭であるという秘儀を発見しました(コロサイ、1章:1コリント10章、12章:ローマ、12章などを参照)。「キリストの御体」であるご聖体と区別するために、教会は「キリストの神秘体」と呼ばれます。この教えはイエス様自身も少し話されました。最後の晩餐の席で使徒たちに「私はブドウの木、あなたがたは枝である」と言われたときです(ヨハネ、15章、6)。

 前回、教会はイエス様によって建てられた組織であることを強調しましたが、この組織はイエス様の外側に建てられたものではなく、いわばイエス様の内側に、あるいはイエス様の延長として建てられたものなのです。ですから、創立者とこの組織は切り離すことができないのです。世間には無教会主義という考えがあります。つまり、「私は、イエスキリストは愛するが、人間の組織である教会には属さない。直接にイエス様と関係を持つことで十分だ」と言う人々です。でも、これは上に言った理由で矛盾です。イエス様を愛するならば、教会も愛するはずです。「あの人の頭は好きだけど、あの人の体はきらいだ」なんてことはありえないことでしょう。ある人が好きならば、その人の全体が好きなはずです。でなければ、それは偽の愛と言えるでしょう。

 教会がキリストの神秘体であるということは、我々信者は、まず頭であるキリストと直接結ばれ、次に信者同士も結ばれていることを意味します。人間の体の場合は、体の各部分は神経や血管によって結ばれていますが、神秘体の場合この神経や血管に当たるのが恩寵なのです。

 恩寵についてはまた後で詳しく説明しますが、神の恩寵を受けているのはこの地上の信者だけでなく、天国と煉獄にいる魂も含まれます。それゆえに、教会という集合体は天国と煉獄とこの地上の目に見える教会も含む大きな集まりなのです。

 パウロの面白い比喩を考えてみましょう。それは「体の一部が痛むと体全体が痛む」という言葉です。これは本当で、小指が傷ついた場合、私全体が痛いと感じるということは誰でも経験があるでしょう。このことは信者一人一人の霊的な健康度は、その人だけのものではなく、教会の全体の健康に何らかの影響を及ぼすということを示します。一人のがんばり、あるいは一人の怠けが、他の信者たちの霊的な強さに良い、あるいは悪い影響を及ぼすのです。また、天国の霊魂は、煉獄で苦しんでいる霊魂と地上で苦労している我々を助け、地上の我々は煉獄の霊魂を助けることができるという結論も出てきます。全教会を考えて働き祈ることは単なる慰めではなく、実際に遠くに離れた兄弟たちを助けることになる、という教えが出てきます。この教えが「聖徒の交わり(諸聖人の通功:信者の間で功徳を譲り合うことができるという意味)」と呼ばれるものです。

 全世界で10億人以上のカトリック信者の中には、信仰のために迫害や差別を受けていたり、また戦争や病気で苦しんでいたりする人も大勢います。また、職務上、大勢の信者の司牧に当たる教皇様や司教様も重い任務を背負っていて、たくさんの助けを必要としています。「教皇様のために祈りましょう」とか「司教様のために祈りましょう」と言うのは、そうしたら何か信者である気分に浸ることができるから格好だけすればよいことではなく、本当に効果があり必要なことなのです。

 もちろん、まず各自が頭であるキリストと一致し、その次に一番身近で小さい共同体(家族、小教区の教会)の仲間のことを忘れないよう努めなければなりませんが


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