42)教会−9(統治する権能)

 教皇ベネディクト16世がペトロの後継者に選ばれてから間もないころ、故郷のドイツ(バイエルン)からの巡礼団と謁見されました(4月25日)。そのとき、まず少し遅刻してきたこと(直前に行なわれたエキュメニズムの会議がとても盛り上がって、時間が長引いたため)について「ドイツ人は時間厳守で有名ですが、私はイタリア人的になりました」と冗談を言って赦しを願い、ドイツ全土からのお祝いや温かい言葉についてお礼を述べてから、こう言われました。

 ―コンクラーベが進むにつれ徐々に、いわばギロチンが私の上に降りてくるように私が感じ始めたとき、どうしていいかわからなくなりました。もう私は一生分の仕事を十分に果たしたので、晩年を静かに過ごすことができるだろうと思っていました。正直に主に打ち明けました。「私をお選びにならないで下さい。教会にはもっと若くもっとすばらしい人材がおります。その人たちなら、私とは全く違う熱意とバイタリティーでこの偉大な任務を遂行することができるでしょう」と。しかし、枢機卿様の一人が私に送られたメモに強く胸を打たれました。その方は、ヨハネ・パウロ2世の葬儀ミサでの私の説教を思い起こさせました。説教の中で、私は主がガリレアの湖の岸辺でペトロに投げかけられた『私についてきなさい』という言葉を主題にしました。そして、ヨハネ・パウロ2世が(若いときから)いつもこの主の言葉を新たな思いで受け容れ、「はい、あなたについていきます。たとえ、私が望まないところに連れて行かれようとも」と答えることで、いつも多くの事柄を放棄せねばならなかったことを説明しました。そこで、その枢機卿様は「もし主が今回あなたに『私についてきなさい』と言われたら、あなたの説教を思い出しなさい。逃げてはいけません。あなたは、御父の家に戻られたあの偉大な教皇様がいかに従ったかを語りましたが、それと同じように従いなさい」と。・・・主の道は楽な道ではありません。しかし、私たちは安楽な生活をするために作られたのではなく、偉大なことのために、善を行なうために作られたのです。こうして、最後に頭を下げるしかありませんでした。私は主に信頼します。私は、愛する友人であるあなたたちに信頼します。

 このベネディクト16世の述懐は、教会が政治的団体とも経済的利益を追求する会社とも大きく異なることを教えています。イエス様は自分が「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われましたが、教会の中の権威は「奉仕職」、つまり「みんなの奴隷となる職」なのです。結婚した人は、もう自分のためではなく家族すなわち配偶者と子供たちのために生きるので、そのために自分のしたいことをしばしば我慢する必要がありますが、これと似ているかも知れません。

 しかし、教会が人間の団体でもあることは事実です。どのような団体も一定のルールとそれの違反に対する罰則が定められています。それと同様、教会にも規則や罰があります。イエス様はペトロたちに「あなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われ、その権限を教会にお与えになりました(マタイ、18章、18)。

 教会の統治は、ただただ皆の霊魂の救いを目的としています。それゆえ、例えば教会の中で教会の教えと異なることを教える者が出れば、それを見逃すことはできません。教皇庁がこのような介入をするならば、それを不当な圧迫、圧力と考えるのはお門違いです。もし鳥インフルエンザのウイルスをもつ鳥を発見した保険所の人が、黙って何もしないなら無責任と責められるでしょう。それと同じです。ただ、教会では「人々の霊魂の救い」を考えて行動します。ですから、もし本人が非を認めて赦しを願うなら赦しを拒否されることはありません。もちろん、罪の軽重に従って罰を科されます。個人のことだけでなく、全体のことも考えねばなりませんから。このカトリック教会の決まりは、『カトリック新教会法規』(有斐閣)という本に記されています。一度目を通されたらいかがでしょうか。


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