46)神の恩恵−4

 前回は、助力の恩寵について話しました。それは神が適宜にお与えになる助けのことです。しかし恩寵はそれだけではありません。新約聖書では洗礼を受けると人は「神の子」になると言われています。神の子であることは、一時的なことではなく、一度その身分を与えられれば安定的に続く状態です。この神の子の身分にあることは、まったく人間の力を超えたことですから、恩恵のおかげでなくて何でしょう。この人を神の子とする恩恵を、「成聖の恩恵」と呼びます。

 もちろん、人間が神と同じ本性をもつ子になるはずがありません。聖ペトロはそれを「神の本性にあずかる」というふうに説明しています(第二、1章、4)。「あずかる」というのはその一部をもらうという意味で、人が神の本性の一部を受けるということです。よりわかりやすいたとえで言うなら、聖パウロの教えるように、成聖の恩恵を得た人は神の「養子」になるのです。でも、養子ならば、また父の遺産を受け継ぐことも可能です。神の遺産とは何ですか。それは神の家、すなわち天国です。成聖の恩恵とは、天国への切符ともいえます。

 成聖の恩恵は一つの状態ですが、この状態にいる人間は自然のレベルを超えた行いをすることが可能になります。つまり、三位一体の神を信じること、愛すること、希望することが可能になるのです。そして、その結果、父なる神をお喜ばせることができます。実は人間は自然のレベルにいる限り、どんなにすばらしいことをしても、それで神をお喜ばせすることは不可能なのです。幼い子供が野原の花を摘んで花束を作ったとしましょう。他人ならば、それをもらってもありがたいとは感じないでしょう。でも、その子のお母さんなら、本当は何の価値もない花束でも、愛する我が子が自分のために作ってくれたと、心の底からうれしく思うのではないでしょうか。同じように、成聖の恩恵のおかげで神の養子になった人間のする善行を見て、父なる神は喜んで下さるのです。つまり、本当に神の子として生活できるようになるのです。成聖の恩恵とは、超自然の生活を可能にする「超自然の命」とも言えます。

 以前見たように、アダムとイブが罪を犯して失ったのがこの成聖の恩恵でした。それを回復するために、神の第二のペルソナが人間になり、十字架の上で苦しみなくなり、復活されました。しかし、この後では人間は自動的に成聖の恩恵を受けるのではありません。イエス様はニコデモという学者に「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ、3章、5)と言われました。つまり、洗礼の秘蹟を受ける必要があるのです。洗礼の秘蹟とは、人が新たに神の子に生まれ変わるものなのです。

 ただ、この成聖の恩恵は、大罪を犯せば失われます。あるいは逆によい行いによって増えます。ちょうど、同じ命をもちながら、生き生きと生きている人と、そうでない人がいるように、超自然の命にも差があるというわけです。

 こういうカトリックの教えに対して、ルターは、「恩恵とは、神が人間を優しい目で見てくれると言うことで、人間の方は全然変わることはない」と言いました。それは上に見た聖書の言葉とは違います。しかし、人によっては、「自分は洗礼を受けているけど、神の子であると感じられない」と言う人もあるかもしれません。もしそうなら、次のように考えたらいいかもしれません。私と神との関係はどうか、一日に何度くらい神のことを思い出すか、赦しの秘蹟を受けて恩恵を取り戻したり増やしたりすることはしばしばあるか、と。ある人がすばらしい人の養子になったが、彼はその義理のお父さんとは一緒に住まず、会いに行くこともなく電話をしたり手紙を書いたりすることもないとしましょう。その人に、自分のすばらしい父親の子供である自覚が生まれなくても当然でしょう。

 この助力の恩恵、成聖の恩恵という言葉は、聖書には出てきません。以前見ましたように、神の啓示は聖書と聖伝に含まれていますが、そこに含まれた啓示をもとに黙想と考察を重ねるのが神学という学問です。この神学の不断の努力によって、神の啓示の理解が少しずつ深まるのですが、恩恵に関する知識も同じです。


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