54)私審判

 人が死ぬと霊魂が体から離れます。実は正確にはその逆で、霊魂が体から離れるので人間は死ぬのです。人間は元来霊魂と体から成っているものなので、この二つが離れるのには苦痛を伴うことが予測されます。いずれにしても、その後体が腐敗していくことは誰の目にも明らかです。でも、霊魂はどうなるのでしょうか。

 聖書には「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(『ヘブライ』、9章、27)とあります。これを私審判と言い、世の終わりにある公審判と区別されます。ところで聖書には、公審判についてははっきりした言及があります(マタイ、25章参照)が、私審判についてはほとんどないのです。しかし、金持ちと乞食ラザロのたとえ話で、二人が死ぬと後者はアブラハムの懐(天国)に、前者は地獄に行っているので、死後に何らかの裁きがあったと考えられますし、前述の『ヘブライ人への手紙』でパウロがそう言っています。

 では、私審判ではどんなことが裁かれるのでしょう。聖書に言及がなく、また教会もこの点についてはっきりした教義を提示していませんが、神学者たちは様々な推測をしています。以下はそれのまとめです。

 イエス様は最後の審判がどのように行われるかについて詳しく教えられましたが、それと同じものであろうと推測されます。古代エジプトにはオオカミのような姿をした神が死者の魂を天秤にかけている様子が描かれていますが、死者の善行と悪行を秤にかけて、前者が多ければ救われ、逆の場合は滅ぼされる、というようなことではないようです。もしそうならば、イエス様の隣で十字架刑に苦しんでいた泥棒が「あなたは今日私とともに楽園にいるであろう」と言われることはなかったでしょう。カトリックは人が死ぬ直前に痛悔するならば、その人は救われる(地獄を免れる)と教えますので、救いは善行の量が悪行より上回ることにあるのではないと言えます。

 それでは何が問題になるのか。これを考えるとき参考になるのが、イエス様が結構詳しく教えて下さった最後の審判の様子です。そこでは、各個人の隣人への愛徳が裁きの材料となっています。簡単に言うと隣人が困っているとき、その人を助けた人は、イエス様を助けたことになり、天国に向かい入れられるというのです。これを読んで浅はかにも「それなら『殺すな、姦淫するな、盗むな』などという掟は関係ないんや」と早とちりしないようにしましょう。イエス様は永遠の命を得るためどうすればよいのかと尋ねた青年に、「掟を守れ」と言われましたし、聖パウロは、「姦淫、わいせつ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、・・ねたみ、泥酔、・・。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできない」と言っています(『ガラチア』、5章、19~21)。問題はそのような悪行をしなくても、隣人への配慮が足りないならば永遠の救いから除外されるということです。

 さて、審判は「真実の時」とも呼ばれます。つまり、審判では嘘が全く通用しないということです。この世界では人間は互いに嘘でその場をごまかし続けることができますが、神の審判の前ではそうは行きません。イエス様が言われた「『はい』なら『はい』、『いいえ』なら『いいえ』とだけ言え」が、要求されるのです。ある解釈では、審判のとき人は自分の人生を完全に見せられるので、いわゆる「ぐうの音」も出ないそうです。

 そのように考えてくると誰でも背筋に冷たいものを感じるでしょう。そこで考えるべき事が三つあります。一つは、「人を裁くな。あなたたちも裁かれないようにするためである」というイエス様の教え。他人を裁くことを控えましょう。私たちは普通他人には厳しく自分には甘いので。もう一つは、審判を面接試験と考えてみましょう。もし面接試験の面接官が私の知り合いであれば、面接なんて怖くない。審判の時の面接官はイエス様ですが、もし今からイエス様と親しい生活(すなわち祈りの生活)を送っていたら、審判のとき、「何某さん。私はあなたをよく知っています。毎日私に言葉をかけていてくれたのだから」と言われ、そのまま前に進むように言われたとしてもおかしくないでしょう。

 最後に、これは秘蹟のところで詳しく説明する予定ですが、赦しの秘蹟を大切にすることです。赦しの秘蹟の法廷では、ある意味で審判が行われるのです。つまり、赦しの秘蹟で罪が赦されると言いますが、それは神様が私たちが告白する罪を消して下さることを意味します。ですから、普段から赦しの秘蹟に与っている人は、審判のときイエス様から「もう裁くことは残っていない」と言われる可能性があるのです。

 よく「人は自分が生きていたような仕方で死ぬ」と言われます。この世で祈りや秘蹟を通じて神と親しく過ごした人は審判を恐れることはありません。


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