59)天国−2

 今回は天国とはどのようなところかを見てみましょう。死後の世界を見てこの世に帰ってきた人はいないので、それを知る唯一の手がかりは神様の啓示です。ということで聖書に何が書いてあるかを見ましょう。

 2001年9月11日、ニューヨークでのテロを敢行した人たちには、天国で感覚的な快楽が報いとして与えられると約束されていたそうです。『コーラン』を調べたら確かにそのようなことを言っています。(たとえば、「イムラーン一家」、13:「女」、60)。 それに対して、聖書には天国の生活について感覚的なことはほとんど出てきません。せいぜい婚宴の宴という譬えが何か楽しいことを想像させてくれるくらいです。イエス様は、「正しい人は永遠の命にあずかる」(マタイ、25章、46)とか「善を行った者は復活して永遠の命を受ける」(ヨハネ、5章、29)と言われて、はっきりと永遠の幸せについて語られましたが、それがどういう幸せかについては説明されませんでした。

 聖書によれば、天国の幸せとは「神を顔と顔を合わせて見る」(コリント前、13章、12)、「御子をありのままに見る」(ヨハネ第一、3章、2)、「キリストとともにいる」(フィリピ、1章、23)というふうに表現されています。あるいは、「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。・・小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」(黙示録、7章、16.17)。

 ただ、それでは天国の幸せとはどういうことかについては、聖書はヒントしか教えてくれません。なにせ、天国とは「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」(前コリント、2章、9)ものなのです。神の特別の恵みで天国を垣間見たパウロも、その経験を「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉を耳にした」(前掲書、12章、4)としか書いていません。結局、聖書が教えることは、天国の幸せは人間の想像を超えることで言葉では表せないということのようです。

 アビラの聖テレジアも天国の幸せをほんの少し味わったようですが、それについてこう述べています。「そのうちの一番小さいものでさえ、私を恍惚に投じ、この世の一切のものを軽視し、取るに足らぬものとさせるほど、大変貴重な効果を霊魂にもたらすに十分です。こういうお恵みの最初のものでも、ごくわずかなりとも分からせたいと思いますが、さてどのようにそれが出来るかと考えてみますと、それは不可能なことがわかります。すべてが光であるかの世界の光だけでも、この地上の光とはあまりにも違い、とても比較になりません。太陽の光線さえ、ひどい嫌気を起こさせます。想像力は、たとえそれがどんなに敏活でありましょうとも、この光も、またその他、主が私にお啓きになった奇しいことの一つをも表現すること、描き出すことは決して出来ないでしょう(『自叙伝』、38章、2)。

 人間が他人に知識を伝えるときには言葉を使わねばなりません。ところで、言葉で言い表せるものは、普遍的なもの、すなわち時間や空間を超えたものです。例えば、2×3=6ということは、2千年前も今も100年後も、またパプア・ニューギニアでもジンバブエでも日本でも同じです。こういうことは言葉で伝えられるのです。それに対して、一度きりの経験はそうはいきません。それは個別的なものです。だからたとえば、体のどこかが痛むとき、何か美味しいものを食べたとき、その痛さや美味しさを他人に伝えることは不可能なのです。ただ、伝えたい相手が似たような経験をしている場合は、「錐で突き刺されたような痛さ」とか、「塩のような味」とか言って、比較になるものを引き合いに出して説明できます。ところで、幸せも普遍的ではなく個別的です。さらに天国の幸せの場合、それと比較できる幸せがこの世でないので、それを何かに比較して言い表すことは不可能なのです。あるいは、人間は苦痛の経験は多いが、幸せを感じる経験は少ない、だから天国を想像することが難しいとも言えます。

 菊池寛の『極楽』という短編小説では、仏教の極楽では人は何の苦しみもなく暑さも寒さも感じない状態のうちにずっと蓮の花の上で座っているのですが、とても退屈であるかのように描かれています。また、確かに黙示録から取った描写ですが、天国では神様の前で跪いて「聖なるかな、聖なるかな」といつまでも言い続けるとかいうがあります。この二つは天国のパロディーと言えます。そんなところなら、誰も魅力を感じないでしょう。

 しかし、天国の幸せは神様が人間のために準備されたものですから、人を完全に満足させるはずです。聖パウロも「現在の苦しみは、将来わたしたちに表されるはずの栄光に比べると、取るに足らない」(ローマ、8章、18)と保証しています。

 ただ、それは感覚的な喜びではありません。人間は成長するに従って幸福を感じるものがだんだん変わってきます。幼稚園児はキャラメルやアイスクリームに喜びを感じるが、小学生はゲームに、中学生にはスポーツや音楽、高校生になると友情のすばらしさを発見する、と言うふうに徐々に物質的なものから精神的なものに変わってきます。幼児には友情のすばらしさは理解できない。同じように、肉体をまとってこの地上に住んでいる我々には感覚的な喜びはよく分かるが、精神的なそれはなかなかピンと来ません。

 天国の幸福を少しでも理解できるためには、精神的な世界の現実に親しんでいる必要があります。私も小さいとき、天国ではもう何も食べる必要がないと聞いてがっかりしたことを思えています。つまり、精神的な成熟度が要求される。では、その感覚的楽しみとはまったく質の違った幸福とは何か、それについては次回に見たいと思います。


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