61)体の復活

 イエス様は公生活の間、いくらかの予言をされました。そのうち使徒たちの将来について、教会について、エルサレムの破壊についての予言は、それが実現されたことを私たちは確認することができます。しかし、主の予言の中でまだ実現していないものがあります。それが世の終わりについてのものです。この世界は永遠に続くものではなく終わりが来る、そして終わりの時に死者が復活し、審判が行われ、この世界は刷新され、人は永遠の幸福が罰に入る、というものである。

 古代のインドやギリシアでは、歴史は円運動のように何度も繰り返され終わりがないと考えられていたようですが、聖書は歴史が直線的だと教えます。すなわち、神が始めにこの歴史の幕を上げられ、最後にその幕を閉じられる、と。もし歴史が円運動で何度も繰り返されるなら、人間の人生も歴史も何度も繰り返されるわけで、それなら今の私の人生は価値がないということになりませんか。また、人生が変転を繰り返しながらいつまでも続くなら、それは恐ろしく辛いことではないでしょうか。幸いに、この人生は終わりがあり、そして永遠の安息に入る(もちろん永遠の罰の可能性もある)というのが聖書の教えです。人生は一回きりだからこそ、軽薄な遊びではなく、真剣勝負のように崇高で価値あるものなのです。

 世の終わりに起こると予言されたことの中で、ます死者の復活ということを見てみましょう。この体の復活と言うことは、現代人にとって信じにくいことですが、教会がその中で産声を上げたヘレニズム世界ではもっと難しいことだったようです。パウロがアテネで大勢の人々を前にして、この世界を創造された私たちの近くに存在される神について話し、最近起こったキリストの復活について触れると、それまで黙って聞いていた人々は「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらおう』と言った」(『使徒言行録』、17章、32)。つまり、復活は信じられない馬鹿げたことだったのです。コリントの教会にも同じ不信を表明する人が出たので、パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった」と書き送らねばなりませんでした(『コリント前』、15章12)。

 実に体の復活と言うことは、神の啓示がなければ人間には思いもよらなかったことです。旧約時代も終わりの方にならなければ、この教えは見あたりません。(『ダニエル』、12章、1~3:『知恵』、4章、20 〜 5章、14:『マカバイ後』、7章)

 しかし、イエス様ははっきり教えられました。「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して罰を受けるために出てくるのだ」と(『ヨハネ』、5章、28~29)。体が復活することを信じるのは、なによりもイエス様がそう仰ったから、また「神には出来ないことは何一つない」(『ルカ』、1章、37)からです。

 ただ、体が復活ことは、理不尽ではないとある程度説明できます。すなわち、人間は天使とは違い、体と霊魂から成るものであって、霊魂だけの状態は人間らしくないということも理由の一つです。人は善もしくは悪を行ったとき、体もその行いに参加したのですから、体も一緒に報いか罰を受けるのは当然でしょう。

 それでも、ちょっと復活の時を想像してみると、「いったいどういう体で復活するのか。胎児の時に死んだ子供や年取って死んだ人は、その死んだときの体で復活するのか。あるいは病気などで体が不自由だった人は」とか、色々と細かい疑問がわき出てきます。その疑問は初代教会の信者も抱いたようです。コリントの教会の信者に対し、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」とパウロは先手を打って質問し、播かれて朽ちた種から新しい植物が生えるという譬えで答えています(『コリント前』、15章、35~58)。種の状態の時、その後その種からどんな草木が生え出るかは想像も付きませんが、それと似ているというのです。しかし、神が全能で善いお方ですから、私たちにとって最もよい姿を与えてくださるでしょう。またその体は復活した主キリストの体と似たものになるはずです。すなわち、物質の特長である重さや抵抗がなくなるようです。ただし、悪を行った人の体は逆です。

 こうして人間は再び体を受けて審判に望むのです。それが最後の審判、公審判です。それはどういうものか、次回に見てみましょう。


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