第4回 ソクラテスと倫理学

 物の値段は、「公民」でいずれ習うでしょうが、その物を作るのにかかった材料費、人件費、利益などを加えていったものです。しかし、同時に、その物がどれほど必要とされているか(需要)と、その物がどれくらいの量あるか(供給)のバランスでも決まる。つまり、数が少ない物が多くの人に求められるとき、その物の値段は上がります。これを希少価値という。いよいよ大型連休ですよね。浮き浮きしますね。けど、連休に付き物はあちこちで見られる交通渋滞とラッシュです。なぜこれが起こるか。それは大勢の人が同じことをするからです。誰も行かないところに行けばラッシュはない。私は、三川台の卒業生が、大勢の人がするからする、しないからしない、という「右に習え」式のその他大勢の一人ではなく、自分の意見に従って行動する人、希少価値を持つ人になってほしいと常々考えています。この手紙もそんなことを考えて書いているのです。

 先日のプリントの後、「あれは長すぎます」と言ってくれた人が複数ありました。この種の注意はとても助かります。今後も気がついたことがあれば教えてください。読まなくてもいいと言っていますが、できれば読んでもらった方がいいからです。この手紙では、何も哲学のような肩の凝ることばかり書きたいと思っているわけではありません。ただ、哲学の歴史を見ると、人類が実に色々な問題について考えてきたことがわかります。そして、そのようなことを知っていれば、今の私たちが関係している問題を考えるときに役に立つことが少なくありません。

 かなり前から日本でも、詰め込み教育ではなく考える勉強を進めるように勧められていますよね。でも「考えろ、考えろ、と言われても、いったい何を考えたらええん」と反論したくなる。私たち凡人がいきなりゼロから考ようとしても「馬鹿の考え寝たるに似たり」(これは『成語辞典』にも載っていませんでした)と言うように、時間の浪費になります。それよりも、今まで歴史上に出た頭の良い人たちが何を考えたかを見る方がよっぽど役に立つ。アリストテレスという人は、『形而上学』という本(これは哲学の諸問題をあつかった本)の一番初めのところで、まず彼以前の哲学者者たちが、何を考えたかを詳しく記して分析しているのです。だから、ここではそれと同じことをしようというわけです。ただ、毎回毎回このような固い話をしていたら、そのうち皆さんの方が疲れてしまうはずですから、時々違った趣向の話もしたいと思っています。

 それでは本題に移りたいと思います。先日は、紀元前5世紀にアテネが繁栄するとともに、ソフィストという人たちが現れ弁論術を教えるようになったと言いました。弁論術というのは、本来は意見を相手にわかり易く伝えるための技術です。そして、相手に伝えるべきは、真理(本当の事実)のはずです。それまでの哲学者と言われる人々は、真理とは何かを追求してきた人たちでした。が、ソフィストたちの教えた弁論術は、「真理はどうだってええ。大切なのは相手を言い負かす」ためのものだった。彼らにとって、あることが正しいか誤っているかはどうでもよかったのです。ゴルギアスという人は「真理なんてあらへん。百歩譲って、もし真理があったとしてもそれを知ることができへん。もう百歩譲って、たとえ知ることができたとしても、言い表すことはできへん。だから、真理なんて考えることが無駄や」と言っていました。ソフィストの代表者のプロタゴラス(BC.486〜396)は「人間は万物の尺度である」、つまり「何が正しく何が誤っているかは、人間が決めるもんや」と言ったそうな。

 こんな考えが広がるとどうなると思いますか。これはちょうど今の日本に似ているのですが、行ないの善悪には全く注意せず、自分さえ良ければよいと考えて、お金や名誉や人間の低級な欲望を満足させるものにみんなが夢中になる。その結果、国民の利益を考えるべき省庁の役人が自分の利益のみを考え、接待を受けることに夢中になり、会社側も利益を上げるために法律で禁じられていることも平気で行なうようになる。

 この状態を憂いたのがソクラテスでした。彼は学問の目的は金もうけや出世ではなく人を良いものにすることと考え、人をよくするためには、真理を知らなければならないと確信していたのです。ソクラテスは、自分を死刑にしようとした裁判の中で、「アテネ人諸君、・・最も偉大にしてかつその知恵と力とのゆえに最も名高い都市の民でありながら、出来る限り多くのお金をためることや、名聞や栄誉のことだけを心配して、かえって知恵や真理やまた自分の霊魂を出来る限り良くすることなどについては少しも気にかけないことを、君たちは恥ずかしいとは思わないのか」と言っています(プラトン著、『ソクラテスの弁明』)。何か今の日本人にも当てはまる言葉ですね。

 ソクラテスは、特にソフィストが青少年に与える悪影響を心配しました。そこで、彼らの化けの皮を剥がそうとしたのです。そして、非常に皮肉な方法でせまりました。つまり、「わしゃ、何でも知っとるぞ」と威張っていたソフィストたちに、「私は何も知りません」と教えを乞うわけです。そうするとソフィストは喜んで「なんでも教えたるさかいに、何でも聞いてみ」と言うわけ。そうして質問をする。ソフィストは答える。そうすると今度は「でも」と言ってその答えのわからない点を質問する。ソフィストがまた答えると、また質問する。このようにしていくと、最後は結局ソフィストも何もわかっていなかったということがばれるのでした。ソクラテテスがしたかったことは、まずみんなに「自分は実は何も知らない」ことを知らしめる(これを「無知の知」と言う)ことでした。でも、こんなことをしていると、当然それまで先生として威張っていた人たちは「くそ、恥かかしやがって」と思ってソクラテスを恨む。その結果死刑になったわけ。

 また、彼は、どういう行いが善くてどういう行いが悪いのか、ということだけでなく、善とは何か、悪とは何か、といった問題を解こうとしました。これが倫理学の始まりです。ソクラテスは倫理学を建て始めたが完成しなかった。この仕事は、彼の弟子のプラトン (BC.427-347)とアリストテレス(BC.384-322)によってほとんど完成されます。

 しかし、このギリシアの最高の哲学者たちにもはっきり分からなかったことがあります。それはなぜ人間は悪を行うのか、ということです。ソクラテスは、人間は何が善であるかを知れば、必ず善を行うと主張しました。つまり、誰も故意に(わざと)悪を行うものはなく、人間が正しくないことをするように思われる場合、それは人が善を知らないからだと言うのです。アリストテレスも大体同じ説明をしています。でも、そうでしょうか。人間には、「悪いと分かっているのにしてしまう」という事があるのではないでしょうか。

 みなさんは、どう思いますか。


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