第27回 輪廻転生

 先週の水曜日にこの手紙は書いたのですが、ぼやっとしていたらもう終会が終わっていていました。今日授業で少し話しましたが、私は本当に義務教育に反対です。ただ、勉強したくないなら多いに結構ですが、そのかわり仕事をすべきだと考えています。貧しい国の子供たちは小学校に行く代わりにもういろんなことをして働いているのです。この貧困はなんとかして解決しなければなりませんが、その子供たちを日本の小中学生はまねるべきだと思います。これについてまた後ほど。では。

続第一章;死後の世界はないという意見について。

 人間が霊的な魂をもっていない、つまり人間は肉体だけであるという考えを持つ人は、必然的に人間は死ねば無に帰する、つまり死後の世界なんてないと言います。でも、それでは逆に霊魂の存在を認めたら、必ず来世の存在を認めるか、というとそうではない。たとえば、アリストテレスは人間が霊的な魂を持つと考えましたが、死後もその魂が生き続けるかどうかは、あえて結論を出しませんでした。また、次の二つの考えも、魂は認めるが結局来世を否定する考えです。

 その一つは輪廻思想です。これはご存じの通り、生物の魂は現世の行いに従って、死後別のものに生まれ変わるという考えですよね。この考えを信奉するのは、インド古代のバラモン教(カ−スト制度を生んだ宗教)とそれから発展したヒンズ−教、そして仏教です。と言っても、仏教の創始者、ゴッタマ・シッダ−ルタ(紀元前 565~485)はあの世については何も話さなかったが、弟子達が来世についての教えを作っていったようです。

 7、8世紀ごろチベット人がラマ教という自分たちの仏教を作りました。ラマ教は後でフビライ汗の時にモンゴルにも伝わりモンゴル人の間にも広がります。このラマ教の指導者がダライ・ラマと呼ばれますが、ダライ・ラマが没するとその日に生まれた神童を探して、次のダライ・ラマするのです。というのは前のダライ・ラマの魂がその子に移り住んだと信じているからです。

 私にはこの輪廻思想はおかしいと思われるのですが、その理由は、もしそれが本当なら、私達が生まれてくる前に何であったか(犬か猫かあるいは人か)を覚えているはずだが、何も覚えていないということです。しかし、そう言うと、「輪廻思想では、生物が死ぬときその魂は記憶をみんな消されるのだ」と言い返されます。でも、もしそうならですよ、例えば、あなたの友人のA君が死んだとしましょう(変な例ですみません)。そして、その人は記憶を全部失って、全然別の人(B君)に生まれ変わり、あなたの前に現れたとしましょう。そのB君はかつてあなたと一緒に遊び勉強したA君とは別人でしょう。B君は、あなたと一緒に遊び勉強し駄じゃれを言い合って笑ったという経験をまったく記憶していないのです。B君とはもう一度始めからつきあいをし直さないと友達にはなれないわけ。以前A君に言った駄じゃれをもう一度言う必要がある。だから、もし輪廻思想が正しいなら、結局人間は死んだら終わりで、その後にまったく別のものが存在し始めるということになる。

 輪廻が正しいと言う人のもう一つの論拠は、ときどき初めて見たことなのになぜか以前どこかで見たことがあるという経験です(デジャビュ;deja vu;already seenの意味のフランス語)。これは、私たちが今の人生を始める以前に別の人生を持っていた証拠だと言うわけです。上で言ったように、もし生まれ変わるときにそれ以前の記憶が全部消されるのなら、どうしてデジャビュなんてことがあるのか理解できませんが、ともかくこの前世の記憶は非常にあいまいでしょ。それから、もう一つ不思議なことは、もしある時に見たことを思い出すくらいなら、どうして自分が誰であったかというもっと大切なことは全然思い出さないのでしょうか。何かを見るという経験に比べれば、自分が誰であることを自覚する経験はずっと重いはず。だから、軽い経験を思い出すなら、より重い経験は絶対に思い出すはずだということです。では、なぜ「デジャビュ」なんてことがあるのでしょうか。私の個人的な考えでは、この今の人生で経験したことが無意識に連結して何か以前経験したことのように錯覚するのではないかと思います。

 インドに何度も滞在した経験のある学者の意見では、インドでも輪廻をまじめに信じている人は少ないそうです。輪廻が正しいなら、人生は何度でもやり直しがきくことになる。けれどもし間違っていれば大変です。まじめに考えてみる必要があるでしょう。

 もう一つの考え方は、死後人間の魂は宇宙の魂と合体する、とか何とか言う考えです。この考え方は、いくらかの近代の哲学者によって主張されているようですが、どうもまじめに主張されているわけではないようです。いずれにしても、万一これが本当なら、これも結局人間の魂は死後になくなるということになるのはお分かりでしょうか。というのは、私の魂が死後に宇宙の魂と合体したら、もう私の魂は存在しないのですから。

 前回、来世がないと考えたら、人生は出来る限り楽しんで過ごすことが人間の幸せだという考えになる、とか、来世での罰も報酬もないのだから好きなことして過ごすべきだという結論になると言いましたが、覚えていますか。もし、そうなら、来世を信じない人はみな快楽主義者で不道徳な人になってしまうのですが、現実は必ずしもそうではあません。例外は一杯ある。それはなぜかと言うと、一つは、人間には、いくら本人が否定しても、良心というものがあって、心の奥底で「善を働き、悪を避けよ」という声を聞くからでしょう。もう一つは、そしてこれが多くのケ−スに当てはまると思うのですが、人間は口では「あの世なんてなか」と言っていても、心底そう考えていないか、あるいはまじめに考えずに口ではそのようなことを言っている場合があるからです。 また逆に天国と地獄を信じていても、目の前の楽しいこと引かれたり、辛いことを恐れたりして、途方もない悪事をすることもある。その理由の一つは、人間がみんな持っている弱さにあるでしょう。むかしむかしのコマ−シャル(何のコマ−シャルか忘れましたが)で、「わかっちゃいるけどやめられない」というのがありましたが、それです。でも、もう一つの理由は、この場合も死後のことをまじめに考えていない、あるいは理解していないことにある。人間って複雑なものですね。


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