第28回 来世についてのキリスト教の考え

 いよいよ期末試験の一週間前ですが、これが中学最後の期末試験ですので、よい思い出となるようにしっかり勉強してください。ところで、先週プロ野球のドラフト会議がありました。この制度は選手が好きな球団を自由に選べないという批判がありますが、ちょうど長崎では公立高校に行きたい人が自由に高校を選べないのと似ていますね。私は日本シリ−ズよりドラフト会議の方が好きという変わり者です。というのは、この会議では各球団のスカウトの目が確かめられるからです。例えばヤクルトの古田選手は、大学を卒業したときある球団を希望していたのですが、その球団の社長が「目がねをかけたキャッチャ−はいらん」と言ったため指名されず、社会人チ−ムに行き、2年後ヤクルトに入ったのです。ちょうどそのときヤクルトにはかつての名捕手の野村監督がいて、その指導を受けて今のような大選手になったわけ。また1989年には、東京六大学で三冠王をとった大森(慶応大学)という選手がいましたが、「巨人以外ならプロには行かない」と言っていたので、他の球団は手を引き巨人が指名したのですが、その時に大洋(今の横浜)が指名したのが大魔神佐々木投手でした。当時の評価としては佐々木より大森の方が上だったのですが、外野手だった大森選手は当時外野手がそろっていた巨人では結局ほとんど二軍暮らしで、昨年どこかのパリ−グの球団にトレ−ドされ、他方佐々木投手は今を時めく大選手になりました。人の人生は不思議ですね。

 わけの分からないおしゃべりはこれくらいにして、それでは「あの世シリ−ズ」に移ります。今回からキリスト教ではどう教えているかを説明します。キリスト教の教えはイエス・キリストの教えであって、カトリック教会はそれを忠実に伝えていると自負しているわけですが、その教えの中でも信じなければならない部分(これを教義{ドグマ}と言う)と、各自が勝手に解釈してよい部分があります。そして、教義の部分は普通とても限られていて、大きな部分がそれぞれの解釈に委ねられています。この「あの世」に関しての教えでも教義の部分は少ないので、神学者たちが残りの部分について様々な意見を言っていますが、それも紹介したいと思います。

 何年か前にテレビで臨死体験についてのドキュメンタリ−がありました。臨死体験というのは、事故などでほとんど死にかけたときの体験です。その状態から回復した人たちの証言を集めた番組でした。それによると、多くの人が死にかけたとき向こうのほうに明るい光を見たと言っているそうです。「そんなことは何にも見なかった」という臨死体験者もいることも言っておきますが、面白いことですね。でも誰もそこまで行って帰ってきた人はない。そこには何があるのでしょう。

第三章:あの世についてのキリスト教の教え
 キリスト教は人間は霊魂と体からできていて、肉体が死んでも霊魂は永遠に生きると教えます。霊魂がいつ体から離れるのか、脳が死ぬときか心臓が止まるときか、は科学の問題で教会は何も言っていません。

 しかし、はっきり教えていることは、霊魂が体から離れた瞬間に審判があるということです。これは個人と神様の個人的な審判なので「私審判」と呼ばれます。好奇心を引かれることは、私審判とはどのように行なわれるのかということですが、これについては聖書には何も書いていません。イエス様は、世の終わりにある「公審判」(最後の審判と同じ)についてははっきり教えましたが(マテオの25章)、私審判については話してれませんでした。そこで、以下に書くことは、神学者たちの言っている意見です。つまり、これと違う考えを言うのもまったく自由てわけ。でも、一様聞いて考えてみてください。

 霊魂が体から離れると、瞬間的に自分の人生をまるで映画を見るように見るらしい。そうすると、自分のした良いこと悪いことさぼってしなかった良いことなど一つ残らずはっきり見える。私審判のことを「真実の時」と言うのですが、それはその時には嘘ごまかしができないからです。この世では私たちはよく嘘をついて人をだましますが、神様はだませません。自分の一生の本当のありさまを見て、判決が下るとき、「それはおかしい」と反論する気持ちさえ起こらないと考えられる、ってわけ。

 もう一つの注意は、審判とは、古代エジプトの絵にあるように天使が天秤をもって、「あんたがした良いことは120、悪いことは140。差し引きするとマイナス20。残念だけど地獄に行きなさい」と言うようなものではないらしい。善業と罪を比べるのではなく、私たちがどのような態度で人生を過ごしてきたか、つまり根本的に、自分のためだけを考えて生きてきたのか、それとも神と隣人のことを考えて生きてきたのか(結局人の生き方とはこの二つのどちらかになる)が、判定の対象になる、とうわけです。イエス様の公審判についての教えによると、人は生きているときに困っている隣人のことを考えて助けてあげたか、それとも無視したかで裁かれています。つまり、自分のことだけ考えた利己主義者か、隣人に気を配ることができる人であったか。(もちろん、殺人や強盗などは隣人愛を全く否定することですからダメに決まっている)。このようなことを考えると少し恐くなのが普通。でも神様は私たちの父である、というイエス様の根本的な教えがあります。だから、この父の良い子として生きようとしていれば、恐れることは何もない。もし、今から神様と親しい生活を送っていれば、審判のときに神様は優しい父として接してくださるでしょうから。また家族、友達の中で困っている人はないでしょうか、という気配りにも心がけた方がいい、という結論です。


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