わがまち 平戸小屋

 
   長崎市平戸小屋町 朝日小学校の風景


1、平戸小屋町の変遷

 長崎港の西側、対岸には長崎市中心部を臨む。江戸時代は「淵村平戸小屋郷」と称し、天領長崎代官の支配地域であった。明治31年(1898年)に淵村が長崎市に編入されたことによって、郷名は廃止され「平戸小屋町」となった。その後、昭和40年(1965年)、平戸小屋町の沿岸部の埋立てなどが進み、大鳥町・丸尾町が分離し、今日に至る。
 住民基本台帳(平成27年)に基づく、世帯数・人口は399世帯・755人(男358人、女397人)となっている。5年前の、平成22年度調査(424世帯・886人内男431人女455人)と比較すると、世帯数・人口とも減少傾向で、町域の大部分を占める斜面市街地の人口減少が目立つ。
 ただし、近年の平戸小屋町の周辺地域では、旭町のタワーマンション建設、長崎駅周辺の再開発事業や新県庁舎の建設、西九州新幹線事業その他マイス計画など、様々な計画・建設事業が進展中であり、数年後には周辺界隈の様相も一転しそうである…

 
  
立山から平戸小屋を臨む、正面空き地は「マイス国際会議場」候補地)


2、平戸小屋の由来

 江戸時代の平戸小屋町一帯は、長崎郊外の景勝地の一つで、代々唐通事(今で言う通訳)であった頴川四郎左衛門の別荘「水月居」などがあった。しかし、肥前国平戸藩がこの地を譲り受け、そこに陣屋と御船小屋を建てたことから「平戸小屋」の地名がついた。以後、平戸小屋郷として、明治時代に至るが長崎市に編入され、さらに昭和40年11月には町名町界変更があり、かつての平戸小屋郷は、大鳥町・丸尾町に一部分離、かつての半分ほどの町域となってしまった…
 ちなみに、平戸小屋町一帯は、かつての景勝地と言うことで、これにちなむ地名も残っている。例えば、南側にある「秋月町」は、仲秋の名月の鑑賞に最も適していた土地であったことに由来する。また、近隣の「飽の浦」も、かつては「秋の浦」と呼ばれていた事から地名が起こったそうである。この界隈の高台から臨む長崎港の景色もさることながら、英彦山を登る仲秋の名月もさぞかし絶景であったに違いない。


  

(「平戸小屋」の由来ともなった平戸藩の船だまり跡



3、史跡名勝
 
平戸小屋の御鎮守様「鳥岩神社」

 
平戸小屋郷(現在の平戸小屋町・大鳥町・丸尾町一帯)のご鎮守様。正確な創建年代・由来は不詳。ただ、江戸時代半ばには、平戸小屋郷が成立していることから、その当時からこの一帯の氏神であったに違いない。現在は正一位のお稲荷様をお祭りしており、秋まつりは10月23日。大鳥町各自治会から踊りが奉納され、平戸小屋の宮日となっている。また、地元では明神(みょうじん)さんとして親しまれ、ハタ揚げをする際には「明神さんから風をもらおぅ」と調子をつけていたそうである。

  
 鳥岩神社境内

 
幕末ロシア海軍駐屯地跡

 
現在の十八銀行稲佐支店の角を西側(江の浦川沿い)へまっすぐ進むと、三菱電機の広い敷地に突き当たる。現在の住所は丘陵部分を「平戸小屋町」、平坦部が「丸尾町」となっているが、かつてはこの辺り一帯までが平戸小屋町に含まれており、幕末この海岸沿いの敷地に長崎を補給港とするロシア海軍の駐屯地があった。
 その後、明治に入っても、ロシア軍士官たちの滞在地が、この界隈一帯となり、士官たちからは「極東第二の故郷」とも評されるようになる。


 
現在の三菱電機敷地一帯。かつての駐屯地跡)


 
お栄さんと平戸小屋
 

(鳥岩神社の下、かつてお栄さんの自宅兼ホテルがあった場所からの風景)


 
道永栄こと「稲佐・平戸小屋のお栄さん」は、もとは熊本県天草群島大矢野島・登立村の出身で、12歳の時(明治5年)に両親とも失い、遠戚を頼って茂木の旅館に奉公に出た。その7年後の明治12年(1879年)12月、稲佐の料亭ボルガの女将・諸岡マツに見初められ、ロシア軍将校の集会所で家政婦として働き、ここでロシア語を習得。マツと力を合わせ、旧志賀の波止場(現在の旭大橋のたもと)で「ホテルヴェスナ」を経営。お栄さんは、その流暢なロシア語と社交術によって、ロシア軍将校たちからの評判が大変良く、船長つきのボーイとして、ウラジオストク・上海に渡るなどした。また、明治24年(1891年)4月27日、ロシア皇太子ニコライ2世の長崎訪問の折、稲佐で丸山の芸者を招き、歓迎の宴席を取りしきった。皇太子ニコライも、お栄の接待を大変喜び、宝石入りの首飾りと指輪を賜るなど、当時の国際親善にも大きく貢献した。
 だが、明治33年(1900年)急に体調を壊してしまい、ホテルヴェスナの経営の一切はマツに任せ、平戸小屋の地(鳥岩神社のすぐ下の段々畑、旧平戸小屋町185番、現大鳥町14・15番)に療養のための自宅と、小さな洋風ホテルを開業。冒頭の写真は、平戸小屋のお栄さんのホテルからの景色で、特に稲佐岳に夕日が昇る頃の長崎市街とそれを取り巻く山々と港の風景は、絶景であった。


 
 


 
おろしあ国酔、平戸小屋

 明治33年(1900)年、平戸小屋にお栄のホテルが開業。流暢なロシア語を話せて社交性があり、ロシア人を親身になって世話するお栄さんのホテルは、ロシア軍の幕僚・高官らの間で瞬く間に評判を呼んだ。
 明治36年、当時の日露の国際情勢が緊張を高める中、ロシアの陸相クロパトキンが、お栄さんのホテルを訪問。20日余り滞在し「露軍海軍のマーチ(母)」と評されるも、お栄は日本政府の軍事探偵からの強要で、クロパトキンが長崎を離れたことを、東京に打電するなどした。
 その後、明治37年の日露開戦により、ホテルの客は激減するが、翌年1月旅順要塞地区司令官ステッセル将軍らが降伏を決定。さらに、ロシア国内では「ロシア革命」が勃発したことにより、日露講和が成立。ステッセル将軍とその家族らは、乃木大将との会見のため長崎へ護送された。その後、平戸小屋の特設仮桟橋に上陸、滞在先は、当初長崎ホテルが選ばれたが、長崎県当局が是非とも「平戸小屋の道永お栄のホテルに」との交渉連絡があり、以後ステッセル将軍とその家族らの宿舎となった。お栄さんは、極品の紅茶や菓子でもてなし、将軍らは大変満足して、数日後長崎を後にしたと言う。
 その翌年明治39年、お栄さんは茂木に欧米風の新ホテル「茂木ホテル」を落成、平戸小屋と茂木を行き来する生活が続いた。また、外国人観光客を誘致するため、英語を話せる使用人を雇うなどして、英文でのポスター宣伝をするとともに、長崎の200余の人力車夫と提携しながら、ホテル経営に邁進した。
 その後、持病の肺疾患が悪化したため、ホテル経営は息子らに任せ、稲佐悟真寺の檀家となって、外国人墓地の管理と平戸小屋での療養生活に入り、昭和2年5月に68歳の生涯を終えた。
 後に、お栄さんのこうした生き方は、長崎三女傑(シーボルトの娘おイネ・大浦お慶)の一人と評されるようになり、今日に至る。


 
  
平戸小屋の船だまりに建つ「ステッセル将軍上陸の碑」


 
長崎ペーロンと平戸小屋

 
明治37年の長崎港の大規模な埋立て工事により、平戸小屋町の一部が大鳥町・丸尾町に分離したが、この時に現在の平戸小屋の船だまりの原型が出現した。その名の通り、両岸を護岸に囲まれた江の浦川一帯では、テンマ船・釣り船・小型団平船・ボートなどが数多く停泊し、賑わいを見せた。
 また、長崎ペーロンの時期には、ペーロンもここにつながれていた。平戸小屋ご出身で、郷土研究家の松竹秀雄さんの著書「稲佐風土記」には、長崎高商(現、長崎大学)のボート部に関連した一節が紹介されていたので、以下にご掲載させて頂き、終わりとしたい…

 「おお 白蛇はおどり ここ西山の一角

  突如として 起こる狂乱の宴

  瓊浦の 水に夏つげて 駒を進めし 
平戸小屋

  西海の覇者 ここに在りて 峨眉山麓に 風清し 」


4、参考文献

・嘉村国男 著「長崎まちづくし 総町編」長崎文献社1986
・松竹秀雄 著「稲佐風土記」(有)くさの書店1996


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