わがまち 桶屋町!



1、 地理・人口

  町域約2万5,000u。公会堂電停そば、古町の西・中島川右岸に位置する。
 住民基本台帳に基づく世帯数・人口は、平成26年12月末日現在全187世帯・289人(男128人・女161人)で、6年前の平成21年度調査(全159世帯287人)と比べ、世帯数は30世帯近く増加しているものの、総人口は横ばい・減少傾向にある。 
 桶屋町は県庁・市役所等のオフィス街にも近く、その利便性から単身者世帯を中心として人気が高まっている町なのだろう。また今後も、公会堂跡地への市役所移転や旧市役所跡地における施設建設等により、この傾向は続くと思われる。
 ちなみに、桶屋町における江戸時代最盛期の人口は「約300世帯・900人」と、今日の約3倍であった。


 ・表1 桶屋町の世帯数・人口推移↓

  調査年度

世帯数

人口

総数()

()

()

     U        U   U     U    U

平成26年度 

187

289

128

161

平成25年度

175

288

122

166

平成24年度 

176

291

127

164

平成23年度 

177

300

133

167

平成22年度 

174

308

136

172

平成21年度 

159

297

131

166



2、 桶屋町由来

 書いて字の通り、桶屋職人が集まって発展した町である。元亀(げんき)2年(1571)の長崎開港以来、徐々に寺社や人家が形成され、慶長時代(1600年頃)にはすでに町が形成されていたと思われる。また、「寛永長崎港図」には「桶屋町」の町名が見られ、この地図が書かれた寛永19年(1642年)にはすでに職人町として確立していたようだ。それ以来町名変更は一切行われていない。
 昭和27年発行で歌川龍平さんの「長崎郷土物語」では、江戸時代の桶屋町は「桶屋職人にとっての別天地」として紹介され、今日(昭和20年当時)桶屋職人の姿が一人もなくなってしまったことを惜しんでいる。

長崎市桶屋町に架かる一覧橋からの風景



3、 史跡・名勝

 唐津(きゅう)兵衛(べえ)キリシタンの戦い

 戦国時代末期、長崎のキリシタン信仰の勢いは凄まじく、現在の光永寺の地にも「サン・ジョアン・バプチスタ寺」という教会が建てられる程であった(山口家本「長崎根元記」)。これに憤りに感じていた人物が、唐津(きゅう)兵衛(べえ)その人であった。九兵衛はもともと佐賀県唐津の人であったが、出家して(けい)西(さい)(後の長崎5人僧の一人)と称し、仏教の布教活動に邁進した。九兵衛は、当時キリシタンが本拠としていた浦上の地に自らの庵と念仏堂を設け、キリシタンになった者に転宗するよう説得して回った。しかし、九兵衛のこうした活動に対するキリシタンの妨害は激しさを増し、たびたび危険な状況に陥ったそうだ。
 そのような折、九兵衛の熱心な布教活動に感心した長崎奉行長谷川左兵衛は、先の桶屋町サン・ジョアン・バプチスタ教会跡地を寺地として与え、慶長19年(1614年)寺社の建立を許し、これが桶屋町光永寺の始まりとなった。こうした九兵衛の熱心な布教活動がなければ、今日の光永寺はなかったかもしれない。

 光永寺と中島川

 光永寺福沢諭吉先生

 安政元年(1854年)、当時19歳であった中津藩士福沢諭吉は蘭学を学ぶため来崎。
 しかし、長崎で蘭学をするにも住まいが定まらず、同中津藩家老の子奥平壱岐の紹介で、一時、桶屋町光永寺に寄宿。ここで福沢の蘭学修行の日々が始まった。

 その後、出来大工町の西洋砲術家山本物次郎と出会い、以降1年間は山本の自宅で下宿することとなった。

  光永寺門前「福沢諭吉先生留学跡」

 
 桶屋町唐人

 桶屋町と唐人との間には、歴史的にも深い関わりがあった。
 かつて長崎では「寛文の大火(寛文3年・1663年)」と呼ばれる大火事があって、出島町等を除きほぼ全町が被害を受け、死傷者も相当数にのぼった。桶屋町光永寺も類焼、再建の目途もなかった。そのような折、唐大通詞の
(さか)()仁左衛門が中心となり、寄進を募り、同寛文10年(1670年)再興がなった。
 また、桶屋町通りから中島川に架かる「一覧橋」は、高一覧が明暦3年(1657年)募財して架けた。その後は、流失と再建を繰り返したが、明治時代に入って、高一覧の名にちなみ「一覧橋」となった。高一覧は別名
(ふか)()(深見)久兵衛とも言う。

 ※通詞とは、当時の中国商人との間で通訳を行っていた人のこと。彭城家は、その後も通詞として活躍したが、明治に入ると逸調(いっちょう)は画家を志し、高橋由一の下で西洋画を学ぶ。一方で、尺八の奥免許を取得したり、古町の虚無僧寺(しょう)寿(じゅ)(けん)のスケッチを残したりしている。

   
 一覧橋。 写真中央「進入禁止」の道路標識のあたりには、江戸時代まで番所があった。
  

  桶屋町歴史資料

 元禄時代6年(1693年)以降、桶屋町の乙名(おとな)(今日で言う自治会長のようなもの)職は、藤家が代々世襲しており、寛保2年(1743年)以降の宗門改踏み絵帳・日記・諸書留・勘定帳など1万数千通以上が今日まで伝えられている(「藤文庫」・長崎県立図書館所蔵)。
 また「桶屋町旅行伺帳(長崎県立図書館所蔵)」には、桶屋町町内からの寺社への参詣記録が記されており、例えば文化元年(1804年)には伊勢参宮6人・お遍路2人、翌年は大宰府・お遍路ともに4人、文政9年(1826年)には伊勢参宮15人とある。

 ※桶屋町乙名藤家の「藤文庫・宗門帳」は、欠年が少なく、江戸時代長崎における人口推移を調べる有力な歴史資料として 注目されている。
 →慶応義塾経済学会編「三田学会雑誌Vol.92、No、1(1999、4)、P81〜103 

  『近世都市長崎における人口衰退について・友部謙一』」

  桶屋町天満宮弘法大師様

 一覧橋から電車通りへ進み、そのまま勝山町方面へ進むと左手に桶屋町天満宮がある。詳しい歴史は明らかでないが「嘉永2年(1849年)」と鳥居に記されている事から、江戸時代後期には既に創建されていたに違いない。
 また、天満宮隣に、長崎四国八十八箇所霊場があり、弘法大師様が祭られている。お遍路は、江戸時代後期の桶屋町町内からも参加しているが、当時は大変な苦労を要したそうで、長崎でもその御利益にあやかりたいとして建てられた。八十八箇所すべてを回ると四国霊場巡りと同じ御利益があるという。

   左、桶屋町天満宮と四国八十八箇所霊場
  境内の天狗様の御面は、江戸時代の大火の際、その扇で火を打ち消したという言い伝えにちなむ



3、桶屋町歩く

 桶屋町の町並みは、寛文の大火以降の姿をほぼ踏襲している。変更されている場所は旧長崎電気軌道の勝山市場を通る線路付近と中島川沿いの遊歩道が拡張工事により広くなった点であろう。また、一覧橋を桶屋町方面に渡ったところに今日も大木があるが、この付近にあったと思われる番所も今はない。
 桶屋町から公会堂・市民会館方面は、今日は道路と路面電車の線路が走っているが、江戸時代はこの空間に丸々一つの町があり、これを今紺屋町と呼んだ。


  周辺環境

    
  長崎市公会堂(市役所建設予定地) 長崎市市民会館・文化ホール 長崎電鉄「公会堂前」駅 2方面アクセス可能
   
 アルコア中通り         中島川遊歩道




4、参考文献・資料 紹介

  ・歌川龍平 著「長崎郷土物語」長崎民友新聞社1952

 ・越中哲也 著「越中哲也の長崎ひとりあるき」長崎文献社1978

 ・嘉村国男 編「長崎事典 歴史編」長崎文献社1982

 ・長崎文献社 編「長崎町づくし 総町編」長崎文献社1986

 ・布袋厚「復元!江戸時代の長崎」長崎文献社2009

 ・国土地理院ホームページ http://maps.gsi.go.jp

  ・長崎市ホームページwww.city.nagasaki.lg.jp/syokai/750000/752000/p023436.html



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