わがまち 出来大工!


(↑長崎市出来大工町に架かる桃渓橋)

 1、 地理・人口

  北緯32度・東経129度・広さ約2万㎡。
 長崎市中心部の北東部に位置し、東側は中島川・北西方面は県庁通りへの登り坂となっている。
 
 住民基本台帳に基づく世帯数・人口は、平成26年12月末日現在で全211世帯・385人(男170人・女215人)で、5年前の平成21年度調査(全155世帯284人)と比べ約1,4倍近く増加している。今後も周辺地区を含めたマンション開発・市役所移転・新大工再開発事業等の影響で、世帯数・人口ともに増加が予想される…
 
 


2、出来大工由来


 寛文12年(1672年)に「出来大工」という町名が付けられて以来およそ300年間、一切町名変更は行われていない。それ以前の江戸時代初期の頃は新大工(あたらしだいく)町の一部であったが、寛文3年(1663年)の大火後の町割りによって分割・出来きた大工町として出来大工の町名が付けられたと言う。
 また、中島川の東側を
大工(桃の木が多くあったことから)、西側を下大工(しもだいく)町(新大工町から見て中島川の下流の意)とも称した。

※江戸時代当時、新しく編成された町・旧町域から分割された町等を、出来○ ○町などと表記したりした

         
    
(写真左手を「桃の木大工」、右手を「下大工」と称した)


3、 史跡・名勝

木大工 桃渓橋

    
↑桃渓川橋と中島川下流からの風景、↑春になると桃の木が咲く遊歩道)

 正式名桃渓川(もものきがわばし)」、通称ももたに橋。

 延宝7年(1679年)僧
卜意(ぼくい)によって架けられた。この付近は桃の木が多く、桃の木大工町とも称したことからこの名が付けられた。また橋の傍らにはお地蔵様があって、これを卜意地蔵と言ったことから卜意橋とも言う。


慶応大学発祥地 出来大工?!

      ~山本物次郎と福澤諭吉先生

 現在のガソリンスタンドの横、電車通りと馬町との間に一本の小道がある。江戸時代はこの辺りを「町使(ちょうじ)町」と言い長崎奉行の地役人が居を構えていた。その中に山本物次郎という幕末の砲術家がいた。

※地役人とは、長崎奉行が現地採用する武士のこと

 
(↑町使通り、福澤諭吉先生使用の井戸と山本物次郎邸跡)


 山本は小島の砲術家高島秋帆の弟子の一人で、その後は長崎大砲隊の指図役やオランダ伝習生を務め、明治初期の飽の浦製鉄所建設の折は大いに活躍した。また幕末、中津藩士で長崎留学に来ていた福沢諭吉が、この山本の自宅に下宿していたと言う記録がある(「福翁家伝」)。

 当時若き青年であった福沢は山本家の家事・手伝いをこなしながら、山本の私物書であったオランダの書物に読み入っていたと言う。また、山本は目が不自由であったので、学問書その他を福沢が代読、さらには山本の子の家庭教師役も務めた。そして、この福澤の真面目な姿勢に感心した山本は、自分の養子になるようにと言ったそうである。

 福澤は、後に慶応義塾を創設しているが、出来大工町でのこうした学びの場がその後の活動に大いに影響したのかもしれない。


出来大工カッパ伝説

 出来大工から中島川を挟んで八幡町がある。江戸時代はこの川沿いに水神様があって(現在は本河内に移転したそうだが)元々この地域にはカッパ伝説があった。
 詳細は不明な点が多いが、戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)
河野水軍の末裔の渋江氏がこの地に土着し、その家来としてカッパの集団を連れて来たのだと言う。

 現在も桃渓橋と出来大工公民館の間にカッパ様を祭った灯篭が立っているが、この地に土着した河野水軍のカッパの一匹なのだろうか。

 
(↑出来大工町公民館の横に現在もカッパ様を祭る)


出来大工不動明王宝林山青光寺

 桃渓橋からマンションを直進するとガソリンスタンドのある電車通りに出る。この道は江戸時代からある道だが、明治の初め頃までこの通りの西側には宝林山(ほうりんざん)青光寺(しょうこうじ)という真言宗のお寺があった。
 境内297坪・980㎡であったことから、この辺り一帯の敷地がそうであったのだろう。青光寺は正保元年(1644年)延命寺の僧
慶順が正面金剛を本尊として開設し同寺の末寺とした。しかし、明治維新後に廃寺となり、その寺域は売却され、今日に至る。

 
ちなみに、嘉永3年(1850)のペリー来航の折、蝦夷に漂着したアメリカ人水夫31名の宿泊場所はこの青光寺境内であったと言う。

  
(↑出来大工不動堂と寛文の大火による犠牲者の供養塔)

 
出来大工町の1本の楠木

  出来大工町の光雲寺の裏、中島川沿いの車道に一本の楠がある。
 昭和の道路整備の折、車道の邪魔にならないように伐採する予定であったが、出来大工町周辺の近隣住民の意向によって、伐採されなかったそうである。

 この楠を切ってはならない理由があったのかは、今となっては不明な所であるが、出来大工町関連の歴史書などを調べているうちに、伊良林郷の若宮稲荷神社の起源と関係しているように思えたきた…

 
(↑出来大工町の楠が、車道を分割している・↑伊良林町の若宮稲荷様)

 伊良林郷(現、伊良林2丁目)の若宮稲荷神社の創建は、延宝元年(1673)であり、当時、出来大工町の乙名職にあった若杉氏の自邸に祭ってあった楠の守護神(稲荷大神の祠)をこの地に移したことに始まる。
 また、当初は出来大工町の何処かにその楠正成公をお祭りしていた事は確かなようだが、現在はっきりとした場所を特定する事ができない…



4、出来大工

 出来大工の土地は、寛文の都市計画以来、江戸時代のそれを今日まで踏襲しているのが特徴的と言える。唯一の変更箇所としては、現在の光雲寺から地下遊歩道に至る中島川沿いの道路くらいであろう(+路面電車道路沿いは昭和の区画整理で拡張)。皆さんも古地図をもとに出来大工町を歩いてみてはいかがだろうか。


 
(↑中島川遊歩道と出来大工不動堂、大井手町の宮ノ下公園と閑静な住宅街)



5、出来大工町リンク

 「山口写真館」

 
明治38年創業の老舗写真館
 
証明写真から冠婚葬祭、各種撮影はこちらで!!


 
山口写真館公式ホームページ


 
 「㈱山本不動産」


 
長崎市中心部の不動産売買はお任せ下さい!!


  山本不動産公式ホームページ

 


6、参考文献・資料

 ・越中哲也 著「越中哲也の長崎ひとりあるき」長崎文献社1978

 ・嘉村国男 編「長崎事典 歴史編」長崎文献社1982

 ・長崎文献社 編「長崎町づくし 総町編」長崎文献社1986

 ・国土地理院ホームページ 




免責事項:本ページの内容について、その有用・有効・正確・最新性について何ら保証するものではありません。本各ページ末尾には「参考文献・引用資料・出典元」を記載しておりますので、さらに詳細事項をお知りになりたい方は各自ご確認願います。また、各ページともに予告なく更新されることがあります。

 ©Copyright やまたつブログ・長崎 AllRightsReserved2019